形と演武線は役に立つのか? | 南風のブログ

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脳梗塞患者で闘病生活中です。
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社会福祉士国家試験受験指導やってます。
看護学生のための社会福祉読本作成してます。
沖縄空手道無想会世話人に復帰しました。
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「正中線」は、「不動の線」です。

これだけ聞くと、「動かない」と勘違いしそうですが、

 

動くんですよ。

 

身体が動いているんですから、正中線もカラダと一緒に動きます。

 

でも、相手の正中線と自分の正中線を「ロックオン」することで、

動いているけど動かない状態を創り出しているんです。

 

目標を照準に捉えた状態で動くことで、動く意味を殺しているのです。

正中線の相互作用により、

同時に動いたり、相手を多く動かして、自分は最小限の動きに留めたり、

様々なバリエーションを産み出します。

 

自分が動かないで相手も動かない状態が一番攻撃を当てやすい。

その状態をどうやって作るか。

 

これが、自分の正中線を使って相手の正中線に「ロックオン」した状態です。

逃げる相手を最小の動きで追い詰めていきます。

相手がどこまで回っても、身体の向きを変えるだけで、

「ロックオン」状態を維持できるというわけです。

 

左右に回る相手の二次元を

自分の一次元で、相手に迫ることが可能でしょう。

まして、驚異的なジャンプ力や地を這う様な上下からの攻撃も、

相手の正中線に自分の正中線をロックオンしていれば、

意識を正中線に置くだけで、相手の三次元を無視できそうですね。

 

実際には、攻撃とは、相手に対するエネルギーの放出です。

相手は、前方にしか存在しません。

相手は、上にも下にも右にも左にもいません。

勿論、大勢に囲まれたら、一対一に持ち込むような戦略的工夫をしないと、確実に袋叩きですよ。

これは、一対一の戦いの話です。

相手は、前方にしか存在しないんです。

相手の方向を向かないで戦う流儀のヒトも、無視しましょう。

相手は、前方にのみ存在します。

従って、戦いは、一次元上の出来事に過ぎないんです。

だからこそ、と新垣師範は言います。

「日本武道においては、「歩くことが技」なのだ。」

突き詰めていけば、全てが、一次元(前後)の動きに集約される。

戦いは、地球上で重力の影響を受けて立っている人間のすることですからね。

 

柳生新陰流の「合撃(ガッシ)」は

「人中路(ジンチュウロ)とよぶ身体内のゼロの位置を明確にする

と同時に、四次元の時間さえも一次元の一線で対処する

という、心身文化の極致のカタチ」です。

 

「合撃」は、相手が、人中路(正中線)に振り下ろしてきた刀を、

自分も人中路(正中線)に向けて振り下ろします。

 

これまで、「三次元」も「二次元」も「一次元」も、

突き詰めていけば、全てが、一次元(前後)の動きに集約される。

正中線のロックオンで、上下左右の動きは意味を無くす。

という話をしてきました。

この項は、「四次元」ということで、話が「合撃」に戻ります。

同じ時間に同じ場所に存在できるのは、一つの物体である。

全ての物体は、同じ時間に同場所に存在することはできない。

ぶつかり合えば、どちらかが跳ね飛ばされます。

経験者は、体験的に知っています。

修練により、鍛え上げられた技量が、高い方が勝つと。

強い正中線を得るために、修行者は修行します。

この項には書いてありませんが、

強い方が勝つのは自明の理です。

同じ修行でも、正中線を知るか知らないかで差が出来ます。

さらに正中線の鍛え方を知るか知らないかで差が付きます。

折角、『沖縄武道空手の極意』シリーズを購入したのに、

珍紛漢紛・意味不明だとモッタイナイですからね。

沖縄空手は、エネルギーの法則を「勿体無い精神」で解明したモノです。

 

柳生新陰流では、相対形の究極のカタチである「合撃(ガッシ)」を最初に徹底的に学び、

その後に十文字勝ちなどに移行すると側聞している。

 

沖縄空手(首里手)では、「ナイファンチ」を最初に徹底的に学ぶのと同様である。

沖縄空手(首里手)において、「ナイファンチ」の思想を理解することなく他の形を習得しようとすることは、

踊りを数多く学ぶのと何ら変わりがない。

闘い(戦い)において「真」さえ分かれば、あとは真理の応用を行うべきなのだ。

「真理」を極めずして、「現象」だけを千も万も覚えたところで時間の無駄でしかない。

弁証法的に、

「本質」を知らずして「構造」は理解できず、

「構造」の理解なくして、「現象」を起こすことはできない。

と言ったところでしょうか。

 

またまた弁証法的に、

「相互否定」した後の「対立物の統一」であり、

「ナイファンチ」は、相互否定を学ぶものであるから、

「ナイファンチ」を学ぶことなくして、身体操作を統合することは出来ない。

相互否定には、分割して別々に鍛えるという意味の他に、

物事を単純化するという意味もある。

 

ここで南風のブログの教養講座

禅用語である「放下著(ほうげじゃく)」とは何か?

放下著は、著(じゃく)を放下しましょうと言うこと。

「我儘やプライド、心配事、その他諸々一切のモノを棄ててしまおう。」という事です。

 

人間の正中線は解剖学的には存在しない。

沖縄空手の正中線は、修行を続けていれば明確に認識できる。

全てが「虚」であるとしても正中線の存在だけは「実」である。

正中線自体はそれだけでは存在しない。

正中線は存在しないこと自体に「実」がある。

「真実」は、我彼の相対関係の中にのみ存在する。

この東洋思想的日本文化は、「無」という概念を「真実」と認識する。

「無」という「形而上」の存在を

「心身」という「形而下」中に持ち得たのが、

東洋思想的日本文化の特異性である。

 

これ(正中線)はね、無いんですよ。ありません。

正中線はそれ自体では存在しません。

認識すると出てくるんです。

正中線の概念を持ち、正中線を認識して、正中線を創り上げることで、

正中線が、身体に登場します。

解剖生理学的には、左右の「関係性(相対性)」の中の中央線なんですが、

人間と人間が向かい合った時の「関係性(相対性)」の中で認識する線でもあります。

身体内の左右の関係性と対人関係の中で認識される線なんです。

このような認識を学ぶ、創ることなしに、正中線は存在しません。

ですから、正中線の概念と認識がある人には正中線が存在し、

そんなもの無い人に、正中線は存在しないわけです。

 

さて、沖縄空手の稽古方法(稽古体系)には「単独形」があります。

というか、主となる稽古が「単独形」です。

そして、最も困難な方法で、最も高度なことを修得することを要求します。

単独形で相対関係での身体操作と正中線の認識を学びます。

沖縄空手には、正拳突き一つにすら、事細かな能書きが沢山あり、

厳密に行うことが要求されます。

「ナイファンチ」にも、事細かな能書きが山の様にあり、何年経っても終わらない

修行の積み重ねが要求されます。

脚一本交差させるのにも事細かな能書きがあり、

波返し一つにも、持ち上げる筋肉と振り上げる筋肉を分け、重力落下と抗重力筋の使用

仮想重心の位置とガマクの掛け方等々あります。

正中線も、左右の広背筋をぶつける壁の代用の正中線の他に、

相手との相対関係と仮想の重心との交互作用を認識する正中線があります。

もうワヤですね。(これ、北海道弁か?)

 

「自分と、(仮想の)相手との正中線の一致」こそが、

古伝の沖縄空手(首里手)の形における演武線の存在理由である。

「自分の正中線と(仮想の)相手との正中線を一直線に位置させることが、

沖縄空手(首里手)と古武道の形における「真の演武線」である。

と言っていた人が、新垣師範以外にもいたんですね。素晴らしい。

 

山根流棒術の大城利弘師範です。1949(昭和24)年生まれですから現在74歳です。

 

現代空手の形は使えない。事実である。

なぜならば、「真の演武線」の存在と活用を理解しなければ、

「形」は「技のカタログ」に過ぎなくなってしまう。

というわけで、空手の形が使えないのではなく、

「現代の空手修行者が「真の演武線」の存在と活用を理解していない。」ということでした。

 

最後に、新垣師範の言葉の引用。

「沖縄空手(首里手)の本来の形では、日本剣術でいうところの「合撃(ガッシ)」を、

前後、左右、上下の全てに行うことを仮定としているのだ。

それも対峙する一人の敵を相手に、この「真の演武線」は四次元の世界さえも包括して、

一直線に延々と伸びていく可能性をも秘めるものでなければならないのだ。」

ということです。

 

ということは、

形と演武線は、自分の正中線と仮想の相手の正中線を、

一直線として意識しながら形を演武する限り、

役に立つまでに仕上げることが可能である。

ということですね。

 

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