「赤と黒 (1954)」
(原題:Le Rouge et le Noir)
1954年10月29日公開。
スタンダールの傑作『赤と黒』の映画化。
復古王政期のフランスで社会への反逆に生きた青年を描く。
原作:スタンダール『赤と黒』
脚本:ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト
監督:クロード・オータン=ララ
キャスト:
- ジュリアン・ソレル: ジェラール・フィリップ - ナポレオンに憧れる野心家の青年。
- ルイーズ・レナール: ダニエル・ダリュー - 町長夫人。ジュリアンと愛し合う。
- マチルド・ラ・モール: アントネッラ・ルアルディ - 侯爵家令嬢。
- ラ・モール侯爵: ジャン・メルキュール - マチルドの父。ジュリアンを秘書にする。
- レナール氏: ジャン・マルティネッリ - ベリエールの町長。ルイーズの夫。
- ピラール神父: アントワーヌ・バルペトレ - ブザンソンの神学校長。
- エリザ: アンナ・マリア・サンドリ - レナール家の小間使。ジュリアンに想いを寄せる。
- シェラン神父: アンドレ・ブリュノ - ジュリアンの師。ピラール神父とは30年来の親友。
あらすじ:
大工の息子ではあったが大工仕事よりもラテン語の勉強に身を入れるジュリアン・ソレル(ジェラール・フィリップ)は、シェラン僧院長の推薦でヴェリエエルの町長ド・レナアル侯爵家の家庭教師となった。
ド・レナアル夫人(ダニエル・ダリュー)はいつしかジュリアンに愛情を抱くようになったが、ジュリアンとの逢瀬が重なるにつれ次第に後悔し、子供が病気になったとき、夫人は自分の非行を天が罰したのではないかと考えるようになった。
世間の口も次第にうるさくなって来たころ、ジュリアンは心を決めてかねての計画通り神学校に向けて出発した。
ナポレオン戦争直後のフランスでは、僧侶になることが第一の出世道だったのである。
しかし、神学校でも、ジュリアンは、平民に生れた者の持つ反逆の感情に悩まねばならなかった。
ピラアル僧院長はジュリアンの才気を愛していたが、同時に彼の並ばずれて強い野心を心配していた。
僧院長がド・ラ・モオル侯爵に招かれてパリに行く時にジュリアンも同行してド・ラ・モオル侯爵の秘書となったが、ここでも上流社会からの侮蔑の目が彼に注がれた。
ジュリアンはその復讐に、侯爵令嬢マティルド(アントネラ・ルアルディ)と通じ、侯爵令嬢をわがものとした優越感に酔った。
二人の結婚を認めねばならなくなった侯爵は、ド・レナアル夫人にジュリアンの前歴を照会した。
夫人は聴問僧に懺悔したと同じく、ジュリアンを非難し、自分との関係を暴露した返事をよこした。
これを読んでジュリアンは激怒し、ヴェリエエルへ行って夫人をピストルで傷つけた。
法廷に立ったジュリアンはあらゆる弁護を拒絶した。
彼はこの犯行が貴族への復讐心から出たものではなく、彼女への恋から発していることを悟った。
獄舎に訪れて心から許しを乞う夫人との抱擁に満足しつつ、ジュリアンは絞首台の人となった。
コメント:
36歳の若さで早逝した永遠の二枚目として有名なジェラール・フィリップの当たり役の一つである。
ジェラール・フィリップは、アラン・ドロンとは違ったタイプのイケメンだ。
文豪スタンダールの原作の映画化だが、往年のシネマカラーの何と味のあることか。
作品もそうだが、このように個人の存在感、インパクトで見せられる俳優は最近は少なくなった。
やはり、昔の名作映画は時にはじっくり観て、感傷に浸りたい。
主人公のジュリヤンをジェラール・フィリップが好演。
尻ごみしてしまう弱い部分も見せてくれたので
主人公に共感することもできた。
監督が意識した赤と黒・・・軍服の赤と僧服の黒、
どちらも着こなしているジェラール様は最高だ。
ダニエル・ダリュー演じるレナール夫人。
綺麗だったけれど、利己的だし最初はあまり好感が持てない。
だが、最後に教会でジュリヤンを見つけた時のあの表情は素晴らしい。
「恋」という感情は、やはり人間の心にある究極のものかも。
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さて、この映画は、フランスの歴史に照らしてみると、どのくらい現実的なのだろうか。
原作者スタンダールはどのような人生を送ったのだろうか。
原作である同名小説は、1830年にフランスで発表されたスタンダールの代表作で、復古王政期の社会階級制度と個人の野心を描いた歴史的心理小説とされている。
主人公ジュリアン・ソレルは、貧しい木こりの家から出て、才能と勤勉さ、時には欺瞞や偽善を駆使して社会的地位を上げようとする。
しかし、彼の情熱は彼を裏切り、野望は破滅に終わる。
この作品は、当時のフランス社会の偽善と物質主義を鋭く批判し、ジュリアンの心理的葛藤を通じて、人間の欲望と社会的制約の緊張関係を巧みに描き出している。
スタンダールは、ジュリアンの内面世界と彼が直面する社会的障壁を深く掘り下げ、読者に強い共感と反省をうながしている。
スタンダールの代表作である『赤と黒』(1830年)は、復古王政のシャルル10世時代を舞台とした恋愛小説であるが、野心に突き動かされ立身出世を遂げようという青年ジュリアン=ソレルが、貴族社会の女性との間の激しい愛憎関係から、ついに破滅していくという、革命後の社会変動という背景を抜きには成り立たない作品となっている。
ジュリアン=ソレルは田舎の貧しい木工所の息子として生まれたが、ナポレオンを尊敬し、自分の力で出世したいと願っている。
聖書をすべてそらんじてみせるという抜群の暗記力を発揮して村の神父に認められ、学費を得るために有力者の家庭教師に紹介される。
やがてその家のレナール夫人と密通する。ジュリアンにとっては「木挽きの子」にすぎない自分が貴婦人の愛を得ることは「自分の義務、しかも英雄的な義務を果たしたのだ」と思う。
危険を感じた神父のすすめで、神学校で学ぶことになるが、仲間に言わせると、ジュリアンは「権威とか模範とかに、盲目的に従おうとせず、自分で考え、自分で判断するというとんでもない悪癖に染まっている」というのだった。
神学校をやめてパリに出て、こんどは軍人をめざし、貴族ラ=モール伯爵家の秘書となる。
その家の娘マチルダと恋の駆け引きを演じる。
レナール夫人は嫉妬に燃えて復讐を誓う・・・・。
こういうあらすじであるが、ジュリアンの野心とレナール夫人とマチルダとの恋の駆け引きがスリリングに展開する。
しかし何よりもそこで描かれているのは、フランス革命とナポレオンによって生み出された「自分で考え、自分で判断しようとする近代的な自我」が、反動期の社会の中で押しつぶされていくという歴史であるとも言える。
スタンダール(Stendhal、1783年1月23日 - 1842年3月23日)は、グルノーブル出身のフランスの小説家、評論家。本名はマリ=アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)という。
ペンネームのスタンダールはドイツの小都市シュテンダルに由来すると言われている。
近代小説の開祖の一人とみなされている大作家。
理工科志望を放棄して、軍人となった。
ナポレオン失脚後はミラノに移住して作品を書いた。
しかし政治風刺と恋愛心理を分析する新傾向の小説は、生前は売れなかった。
作品に、主人公ジュリアン・ソレルで有名な『赤と黒』のほか、『パルムの僧院』、評論『恋愛論』がある。
グルノーブル高等法院の弁護士シェルバン・ベールの子として生まれる。母方の実家も地元の名士であり、スタンダールは幼少期を地方の名士の子として何不自由なく暮らした。
7歳の時に亡くなった母を終生、異常なまでに偏愛し続け、その反動で、実務家で王党派の父を激しく憎み続けた。
そのため、スタンダールは父とは正反対のロマンチストの共和主義者として、その後の生涯を送る事になる。
父の期待を受けて勉学にいそしんだスタンダールは、1799年、優秀な成績で理工科学校の入学試験に合格する。
しかし、慣れないパリの生活でノイローゼになり、母方の祖父のアンリ・ガニョンの従兄弟のノエル・ダリュの家に引き取られる。
ダリュの息子が当時、陸軍省事務次官をつとめていた関係から、スタンダールはダリュの口利きで陸軍少尉に任官し、イタリア遠征に参加した。
母方のガニョン家がイタリア系だったこともあり、元来、イタリアに憧れを持っていたスタンダールは遠征先のイタリアを気に入り、以後、イタリアを第二の故郷とみなすようになる。
なお、祖国・フランスは父のイメージと重なるためか、生涯好きになる事は出来なかった。
軍人となったスタンダールだったが、実際には馬に乗る事も剣を振るう事も出来ず、もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたと言われる。
1802年、軍を辞め、輸入問屋に勤めたりしたが、大陸封鎖令によって海外貿易が途絶してしまったため、1806年、ダリュを頼って、陸軍主計官補の仕事を得、その後は官僚として順調に出世し、1810年には帝室財務監査官にまで昇進する。
その後も経理畑を歩んでいくが、ナポレオン・ボナパルトの没落によって、スタンダール自身も没落する。
その後はフリーのジャーナリストとして、活躍する。
ナポレオン没落後、イタリアに渡り、現地の自由主義者と親交を結ぶが、やがて「スタンダールはフランスのスパイだ」という噂が広まり、失意のうちにフランスに帰国している。
不遇の時代に、スタンダールは1822年、39歳の時に『恋愛論』、1830年に『赤と黒』を発表している。
特に、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作『赤と黒』は、当時は評判にはならなかったが、王政復古下のフランス社会を鋭く批判したものであり、彼の政治思想の真骨頂がよく表現されている。
1830年、七月革命が勃発すると、自由主義者として知られていたスタンダールに再び政治の世界から声がかかるようになり、トリエステ駐在フランス領事に任命された。しかし、オーストリアの宰相・メッテルニヒの承認が得られなかったため、ローマ教皇領チヴィタヴェッキア駐在フランス領事に転じた。1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、『パルムの僧院』を書いた。
1842年、パリの街頭で脳出血で倒れ、死去。墓所はパリのモンマルトル墓地。墓碑銘は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」である。