「オードリー・ヘプバーン」 AFIが選んだトップ女優25人中第3位の名優をレビュー!  | 人生・嵐も晴れもあり!

人生・嵐も晴れもあり!

人生はドラマ!
映画、音楽、文学、歴史、毎日の暮らしなどさまざまな分野についての情報やコメントをアップしています。

オードリー・ヘプバーン

 

オードリー・ヘプバーンを特集します!

 

オードリー・ヘプバーン
Audrey Hepburn
 Audrey Hepburn

1956年のヘプバーン

本名 オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン(英: Audrey Kathleen Hepburn-Ruston)
生年月日 1929年5月4日
没年月日 1993年1月20日(63歳没)
出生地 ベルギーの旗 ベルギー ブリュッセル・イクセル
死没地 スイスの旗 スイス ヴォー州
国籍 イギリスの旗 イギリス
身長 170cm
職業 女優
ジャンル 映画、舞台、テレビドラマ
活動期間 1948年 - 1989年(女優)
配偶者 メル・ファーラー(1954年 - 1968年)
アンドレア・ドッティ(1969年 - 1982年)
著名な家族 息子:ショーン・ヘプバーン・ファーラー(1960年生)
息子:ルカ・ドッティ(1970年生)
孫:エマ・ファーラー(1994年生)
主な作品
『ローマの休日』(1953年)
『麗しのサブリナ』(1954年)
『パリの恋人』(1957年)
『昼下りの情事』(1957年)
『ティファニーで朝食を』(1961年)
『シャレード』(1963年)
『マイ・フェア・レディ』(1964年)
『おしゃれ泥棒』(1966年)
『いつも2人で』(1967年)
『暗くなるまで待って』(1967年)

 

オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優。

ヘップバーンとも表記される。

ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインし、インターナショナル・ベスト・ドレッサーに殿堂入りしている。

 

ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも居住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」の名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である。

5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケルのもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。

 

イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。

 

女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。ヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

 

70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)の仕事に捧げた。

ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。

1992年終わりにアメリカ合衆国で文民の最高勲章である大統領自由勲章を授与されたが、受勲一か月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。

 

 

ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。

父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である。

ジョゼフの母親はオーストリア系で、父親はイギリス、オーストリア系だった。

ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など様々な職業とされているが、実際は一度もまともに職業に就いたことはない。趣味は一流で13か国語の話者であった。

 

ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった。

エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラで、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。

エラの母親もオランダ貴族の出身だった。

エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。

エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている。

ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた。

その後二人はイギリスの生活を経てベルギーのイクセルへ移住し、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。

一家は1932年1月にリンケベークへと移住している。

ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた。

結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔がいるのを発見し、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった。

そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった。

1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている。

ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある。

 

ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となり、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。

1939年6月、正式に離婚が成立している。

 

ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。

のちに、1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力もあり、ヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。

その後もスイスの自宅で会っている。

ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。

ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズに娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えたという。

 

ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。

このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、デン・ハーグにいる父親のもとで過ごすことも多かった。

1937年に幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。

ヘプバーンはイーラム 村の小さな私立女学校に入学し、バレエにも通い始めた。

第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。

オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。

ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーの「イギリス風の響きを持つ」名は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラと偽名を名乗った。

1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。

ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。

オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ近郊へと身を寄せた。

後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。

 

1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。

連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。

当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。

1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。

飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった。

当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。

大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていた。

ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった。ヘプバーンは、後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている。

そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。

 

1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。

アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。

1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。

オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団で学んだ。

ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた。

だが、ヘプバーンは170cmの高身長と、体格や筋肉を形成する成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われた。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した。

 

ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアターで上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。

舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある。

『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた。

 

1950年には、映画に出演するようになり、『素晴らしき遺産』、『若気のいたり』、『ラベンダー・ヒル・モブ』、『若妻物語』といった作品が1951年に公開された。

1951年2月にはソロルド・ディキンスンの監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。

ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる。

1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。

この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。

そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言った有名なエピソードがある。

『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった。

ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。

そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定したという。

ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認める条件でパラマウント映画社と契約した。

『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアターで初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた。

『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。

ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワードを受賞している。

『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された。

 

1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。

製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった。

しかしペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求。

エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった。

各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。

 

『ニューヨーク・タイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った。

『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。

 

『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動く物語である。

『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている」と評された。

ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。

 

『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。

ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。

この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。

そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 演劇主演女優賞を受賞した。

同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。

(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。

 

『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。

ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。

 

ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。

1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていく物語である。

この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている。どちらも1957年に公開された。

1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『マイヤーリング』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している。

 

ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた3か月後の1960年10月に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した(公開は1961年)。

この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。

カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した。

これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。

ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている。

だが、映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。

このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。

『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている。

 

ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあると噂を流されてトラブルとなっていく物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である

 

1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。

 

ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『おしゃれ泥棒』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物である贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。

ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼する役だった。

1967年には2本の映画が公開された。

1966年に撮影された『いつも2人で』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出す映画である。

監督のスタンリー・ドーネンは、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている。

そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったと言っている。

多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている。

 

1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』。

ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。

この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。

ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした。

ヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった。

監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている。

ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。

 

1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。

その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている。

 

1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。

この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった。

共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。

『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している。

大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した。

 

テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』に最後の主演で出演した。

出演を決めたのは、共演のロバート・ワグナーがヘプバーンが欠かさず見ていた『探偵ハート&ハート』の出演者であり、グシュタードの別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである。

ヘプバーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『オールウェイズ』の天使の役でのカメオ出演の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった。

 

1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った。

享年63歳。

 

 

出演映画:

 

公開年 邦題
原題
配役 備考
1948年 オランダの七つの教訓
Nederlands in Zeven Lessen
オランダ航空のスチュワーデス オランダ語版79分、英語版39分
日本未公開、全世界でビデオ・DVD未発売
1951年 若気のいたり
One Wild Oat
ホテルの受付嬢 端役
日本未公開、日本ではビデオ・DVD未発売
素晴らしき遺産
Laughter in Paradise
煙草売りのフリーダ 端役。ヘプバーンが英国で撮った最初の作品。公開は『若気のいたり』の後になった
日本未公開
ラベンダー・ヒル・モブ
The Lavender Hill Mob
チキータ 端役
日本未公開(1975年8月5日に東京国立近代美術館のフィルムセンターで1日だけ特別上映、2019年6月15日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)
若妻物語
Young Wives' Tale
イヴ・レスター クレジットの7番目に登場
日本未公開(2019年6月14日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)
1952年 初恋
Secret People
ノラ・ブレンターノ メインタイトルの3番目、エンド・クレジットの4番目に登場
モンテカルロへ行こう
(フランス語版)
Nous irons à Monte Carlo
モンテカルロ・ベイビー
(英語版)
Monte Carlo Baby
メリッサ・ウォルター(フランス語版)
リンダ・ファレル(英語版)
英語版とフランス語版の二種類が製作された。
配役と上映時間(フランス語版102分、英語版79分)はそれぞれで違う。
ヘプバーンの衣装はクリスチャン・ディオール
日本未公開、英語版は全世界でビデオ・DVD未発売
1953年 ローマの休日
Roman Holiday
アン王女(アーニャ・スミス) アカデミー賞 主演女優賞受賞
英国アカデミー賞 英国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞受賞
1954年 麗しのサブリナ
Sabrina
サブリナ・フェアチャイルド アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1956年 戦争と平和
War and Peace
ナターシャ・ロストワ 英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1957年 パリの恋人
Funny Face
ジョー・ストックトン 最初のミュージカル映画作品
昼下りの情事
Love in the Afternoon
アリアーヌ・シャバス ゴールデン・ローレル賞(Laurel Awards)女性コメディ演技賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1959年 緑の館
Green Mansions
リマ 「尼僧物語」よりも撮影は後だった
尼僧物語
The Nun's Story
シスター・ルーク(ガブリエル・ヴァン・デル・マル) 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞
サン・セバスティアン映画祭女優賞受賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞2位
1960年 許されざる者
The Unforgiven
レイチェル・ザカリー 唯一の西部劇映画
1961年 ティファニーで朝食を
Breakfast at Tiffany's
ホリー・ゴライトリー ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
噂の二人
The Children's Hour
カレン・ライト ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞4位
1963年 シャレード
Charade
レジーナ・ランパート 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
1964年 パリで一緒に
Paris When It Sizzles
ガブリエル・シンプソン/
ギャビーの二役
「シャレード」よりも撮影は先だった
マイ・フェア・レディ
My Fair Lady
イライザ・ドゥーリトル ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
1966年 おしゃれ泥棒
How to Steal a Million
ニコル・ボネ  
1967年 いつも2人で
Two for the Road
ジョアンナ・ウォレス ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
暗くなるまで待って
Wait Until Dark
スージー・ヘンドリクス アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞3位
1976年 ロビンとマリアン
Robin and Marian
レディ・マリアン  
1979年 華麗なる相続人
Bloodline
エリザベス・ロフ 唯一のR指定作品
1981年 ニューヨークの恋人たち
They All Laughed
アンジェラ・ニオティーズ 日本未公開。日本ではビデオのみ発売
1989年 オールウェイズ
Always
天使ハップ

 

 

では、これからオードリー・ヘプバーンの出演映画をできる限り多くレビューして行きます。

 

お楽しみに!