ハリウッド・スリラー映画 第86位「ドリアン・グレイの肖像」 LGBTに生きた男の生き様を描く! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「ドリアン・グレイの肖像」

(原題:The Picture of Dorian Gray)

 

The Picture of Dorian Gray (1945) - IMDb

 

「ドリアン・グレイの肖像」 予告編

 

1945年3月3日公開。

バイセクシュアルの美青年の生き様を描く異色作。

興行収入:$2,975,000。

 

原作:オスカー・ワイルド 「ドリアン・グレイの肖像」

監督・脚本:アルバート・リュイン 

 

キャスト:

  • ドリアン・グレイ:ハード・ハットフィールド
  • ヘンリー・ウォットン:ジョージ・サンダース
  • グラディス・ホールウォード:ドナ・リード
  • シビル・ヴェイン:アンジェラ・ランズベリー
  • デイヴィッド・ストーン:ピーター・ローフォード
  • バジル・ホールウォード:ローウェル・ギルモア
  • ジェームズ・ヴェイン:リチャード・フレイザー
  • アレン・キャンベル:ダグラス・ウォルトン

TBT: The Picture of Dorian Gray (1945) – Frock Flicks

 

あらすじ:

1885年、富と美貌にめぐまれたドリアン・グレイは、画家ホールウォードに肖像画を書かせた。

それは素晴らしい画で、まるで生きているような不思議な魅力があった。

画家の姪にあたる少女グラディスは、まだ渇かぬカンヴァスのすみに、伯父の署名のそばにGという字をいたずらに書いた。

自分の肖像画に見とれながらドリアンは、この画の若さを僕がいつまでも保つことが出来たならと一言をいうと、彼の友人で皮肉屋のヘンリー・ウォットン卿は、エジプトの黒ネコの像の前で願えば君の願いはかなうぜという。

数日後ドリアンはロンドン下町の歓楽街を歩いていた。

彼の耳にはヘンリー卿の言葉-生活を享楽しろよ、あらゆる機会をのがさずにという言葉が耳から離れなかった。

下品なミュージックホールで歌っているシビル・ヴェースを彼は美しいと思った。

彼女と結婚しようと思った彼は、ドリアン卿と画家をさそって彼女の舞台をみせた。

卿は言った、結婚の必要はない、肖像画を見に来いと誘って来たら帰さなければいいんだ。

卿の言の如く、ジビルはいったん帰りかけてまた引き返して来た。

彼女はドリアンと別れ得ないのだ。

しかしシビルに手紙を書いた。

君は僕の愛を殺した、僕は快楽のためにのみ生きることに決めた。

肖像画の口元が残酷の表情でゆがんでいるのを見たドリアンはわびの手紙を書いたが、その時訪れたヘンリー卿は、絶望したシビルが自殺したと知らせた。

ドリアンは肖像画を2階の学生時代の勉強部屋に隠した。

数年たって彼は画家ホールウォードに画を見せたあと、美しく成人したグラディスに画家が画のことを話すのを恐れ、背後から刺し殺した。

そして彼の言いなりになる化学者に画家の死体を処分させた。

化学者はその後自殺し、ドリアンはグラディスと婚約した。

シビルの兄ジェイムスは妹の仇がドリアン・グレイであることをつきとめ、彼の別荘の庭に忍びよるが。野ウサギと間違えられて射殺された。

さすがに責任を感じた彼は、グラティスに婚約破棄の手紙を送り、肖像画の心臓にナイフを突きたてた。

たちまちドリアンは倒れた。

肖像画は美しい青年となり、その前の死体はドリアンと見分けのつかぬ醜悪な老人であった。

 

Joe's Random Movie Trivia: “The Picture of Dorian Gray” (1945) |  Joe'smovies948

 

コメント:

 

これは、快楽主義者の世界を描いた異色の小説を映画化したものである。

 

舞台はロンドンのサロンと阿片窟。美貌の青年モデル、ドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の感化で背徳の生活を享楽するが、彼の重ねる罪悪はすべてその肖像画に現われ、いつしか絵の中の容貌は醜く変り果てていく。

慚愧と焦燥に耐えかねた彼は、自分の肖像にナイフを突き刺した……。
快楽主義を実践し、堕落と悪行の末に破滅する美青年とその画像との二重生活が奏でる、耽美と異端の一大交響楽。

 

初夏のロンドン。

都心を離れた閑静な画室で、ドリアン・グレイ(H・バーガー)の肖像画が殆んど完成されていた。

近頃売り出しの画家バジル(R・トッド)は、この絵に異常なまでの創作欲を燃やした。

それはドリアンの美貌のためだった。

画商のヘンリー(H・ロム)はバジルの最高傑作だと激賞し肖像画を買いとってドリアンに贈った。

ドリアンは、絵が永遠の若さを誇り、自分が老いて美しさを失ってゆくことに耐えられない気持だった。

もし、それが逆だったら。肖像画が年をとり生身の彼が永遠の若さを保つことができたら……。

そんなある日、下町の三流劇場で美しい娘シビル(M・リシュダール)と知り合い、いつしか愛し合うようになった。しかし、社交界にデビューした彼の人気に嫉妬し、苦しむ中でシビルは交通事故にあい死んでしまう。

十数年の時が流れた。

ドリアンの若さは昔のままで、周囲の人間たちは正確に老いていった。

ドリアンの肉体は荒淫と麻薬と背徳にもいささかの衰えもみせず、学友のアランの新妻アリス(M・ロム)も彼の魅力の前にはもろかった。

一方、肖像画のドリアンは益々醜く変貌し、彼に苦痛をあたえた。

 

The Picture Of Dorian Gray 1945 REVIEW | Spooky Isles

 

その苦痛がバジルへの憎悪に転嫁し、彼を刺してしまう。

そして死体の後始末を学友のアランに押しつけ、拒否する彼に、アリスと同衾した写真をつきつける。

ドリアンは肖像画を破り捨てる決心をした。

彼がふりかざしたナイフは自分の胸を貫いた。

その瞬間、肖像画は再生し、元の美しい青年に戻り、その前に、夜会服姿のしわだらけの老人が死んでいた。

 

原作者は、オスカー・ワイルドという英国の小説家。

代表作は、『ドリアン・グレイの肖像』、『サロメ』、『幸福な王子』。

 

結婚して子供も設けたが、終生男性との性愛も続けたという、性愛の世界に漬かり切った「バイセクシュアル」の人物だった。

この小説は、まさにオスカー・ワイルド自身を描いたようなストーリーになっている。

 

ヴィクトリア朝時代のアイルランドのダブリンで生まれた。古いプロテスタントの家柄で、祖父も父ウィリアム(William Wilde)も医師であった。母はジェーン(Jane Wilde)。

父母ともに文才に富み、ジェーンは詩人で、サロンの主でもあった。幼少期は女子を欲していた母によって女子の格好をさせられていた。

1864年(10歳)、アイルランド北部、エニスキレンのポートラ王立学校(Portora Royal School)に学び、1871年、古典語の最高賞を受けて卒業し、奨学金を得てダブリン大学トリニティ・カレッジへ進んだ。その後もたびたび受賞し、給費生の資格を与えられた。

1874年(20歳)、オックスフォード大学モードリン・カレッジに進学。ジョン・ラスキンの講義を聴き、評論家ウォルター・ペイターのサロンの常連となり、『ルネサンス』を勉強した。1875年、トリニティ・カレッジの恩師ジョン・マハフィー(John Pentland Mahaffy)に従ってイタリアに旅し、翌年もマハフィーとギリシャに遊んだ。

ロンドンに移り住んでいた母のサロンで、ホイッスラー、バーン=ジョーンズ、アルマ=タデマ、ロセッティらを知った。

1878年、長詩『ラヴェンナ』を刊行し、オックスフォード大学を首席で卒業。特にギリシア語に優れていた。フローレンス・バルコム(Florence Balcombe)への恋は破れた。1879年、ロンドンに出て、画家のフランク・マイルズ(Frank Miles)と共に住む。

恋人だったのではと言われている。

女優サラ・ベルナール、男優ヘンリー・アーヴィングらとつきあった。

1881年暮れに出航し、翌年暮までアメリカ各地で講演をして稼ぎ、また、ロングフェロー、オリヴァー・ホームズ、ホイットマンと知り合った。

アメリカ行きは、ワイルドの派手すぎる芸術家気取りと身なりが遠因でそれをからかうウィリアム・ギルバート/アーサー・サリヴァンのサヴォイ・オペラ、『忍耐、またはバンソーンの花嫁』(Patience, or Bunthorne's Bride)がイギリスで当たり、それをニューヨークで再演する前宣伝に、招かれたという。

帰途の1883年、パリに滞在し文学的知己を得ようとしたが、奇抜な服装だった為好かれなかった。1884年、女王付弁護士の娘コンスタンス・ロイド(Constance Lloyd)と結婚し、のちに2男をもうけた。

1886年(32歳)、15歳年下の少年、ロバート・ロス(Robert Ross)と親しくなった。1887年 - 1890年、雑誌『婦人世界』(The Woman's World)の編集者となって部数を伸ばし、派手な言動で社交界の人気者になった。

1891年、16歳年下の文筆家、アルフレッド・ダグラス卿と親しくなった。

並行して出版活動は活発で、この年パリで『サロメ』をフランス語で執筆した。更に1894年にはダグラスの英訳の『サロメ』が出版された。この前後、ダグラスと共に各地に旅行した。

1895年(41歳)、息子を気遣う第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスと告訴を応酬して敗け、男性との性行為をとがめられて投獄され、さらに破産を宣告された。

そして翌年母が亡くなった。

1897年、獄中でダグラス宛に、懺悔と反省の文を書き続けた。

服役を終えたときは、ロスが迎えた。そしてセバスチャン・メルモス(Sebastian Melmoth)という義理の大叔父にあたるチャールズ・ロバート・マチューリンの著作「放浪者メルモス」の名を借りた仮名で、ダグラスとフランスとイタリアの各地を転々とした。

このとき世間からは既に見捨てられてしまっていた。

1898年、コンスタンス・ホランド(Holland)と変名していた妻がジェノヴァで脊柱の手術を受けたが回復せず没したが、墓参したのは翌年、放浪の途中だった。

1900年初夏までさすらってパリ6区のホテル『L'Hôtel』に泊り、梅毒による脳髄膜炎で亡くなった、46歳。

ワイルドの葬儀は、ロスやダグラスのほか数人だけの淋しい葬儀であった。

ワイルドの墓碑はパリのペール・ラシェーズ墓地にある。

ジェイコブ・エプスタイン(Jacob Epstein)が1912年に彫った股間を隠さない全裸の男性像は、旧法を盾に、作者やコンスタンティン・ブランクーシらが抗議するまでは、受け入れられなかった。

ワイルドの文業と生きざまは世界中に影響を及ぼし、日本に限っても、森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎をはじめ、訳書をものした翻訳者たちが、ワイルドを意識した。

 

自分自身の美しさに酔うという「ナルシスト」であり、女も男も愛するという「両刀使い」で、性の快楽にとことん身を捧げた人物が、実は文学の世界でも多くの小説家志望の若者たちに大きな影響を与えたことは驚きだ。

LGBTの世界は、文学や絵画、映画などさまざまな分野の発展に寄与しているのだ。

 

この映画のリメイクが何度も公開されているようだ。

 

この特殊な世界については、追って特集してみたい。

 

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