「つゆのあとさき(1956)」
1956年11月28日公開。
カフェーで働く女に振り回される男たちを描く。
原作:永井荷風「つゆのあとさき」
監督・脚本:中村登
キャスト:
- 君江 - 杉田弘子
- 京子 - 山本和子
- 川島 - 日守新一
- 松島 - 東野英治郎
- 矢田 - 多々良純
- 篠田 - 須賀不二男
- 篠田の妻 - 水上令子
- 君江の母 - 本橋和子
- 君江の兄 - 井上正彦
- 村岡 - 田浦正巳
- 清岡の父 - 明石潮
- 清岡進 - 大木実
- 清岡鶴子 - 有馬稲子
- 女給春代 - 桜むつ子
- 女給瑠璃子 - 松島恭子
- 易者 - 稲川善一
あらすじ:
時は昭和五年。
郷里で篠田運送店に奉公していた君江は、妻子あるそこの主人に貞操を奪われたことから、本郷で妾をしている同郷の京子を頼り上京する。
君江は、暫く家事を手伝う中、旦那・川島の他に芸者時代の客・松崎老人との関係もある、京子のふしだらさに反発すら感じる。
だが或る日、かねてつけ狙う松崎にもてあそばれ、大騒ぎとなるが、川島の使い込み発覚で京子も生活を清算する。
ほどなく、上野池の端のカフェーで女給となった君江は、物馴れぬ態度に却って客の注目を集めた。
売り出しの流行作家・清岡進もその一人。
君江に手を出したのが因で妻子や生業まで失った篠田が、店で難クセをつけられているところを救ったことから急速に親しくなり、妻鶴子をよそに耽溺の日々を送る。
郷里の父の急死も無自覚な彼女の心に響かず、清岡の紹介で銀座の一流カフェーに勤め出した頃には全く放らつな女となっていた。
清岡も、いつか君江の放らつさを、いまいましく感じ出した。
だが今や、彼の頭は君江の色香と無知な淫蕩のため小説も書けぬほど荒れ、家庭も乱れた。
夫を見限ってフランスへ赴いた鶴子を見送りにも行かぬ清岡は、君江をいためつけ残酷な仕打ちを加える一方、ますます自分を無頼に落して行った。
ある夜、君江は、勤めの帰り、今は一介の運転手となり下った篠田の報復で負傷するが、程なく全快に向かうとふたたび男が欲しくなる。
そんなところを訪れた清岡の弟子村岡は純な心で、清岡を救うのは貴女だけと説くが、男に飢えた彼女は村岡まで誘惑しようとする。
やがて又、じめじめしたつゆ時。
君江は監獄から出たばかりの老い果てた川島に会う。
僅かのビールを前に歓談する人生の敗残者二人。
酔いから覚めた君江の前には、人生に別れを告げる川島の遺書が残されていた。梅雨も晴れた戸外、川島の名を呼びつつ駈ける君江の顔はかつてない真剣さに輝いていた。
コメント:
銀座のカフェーを舞台に、自堕落だがたくましく生きる女給と軽薄な男たちの様子を描いた作品である。
タイトルの「つゆのあとさき」というのは、漢字で書くと「梅雨の後先」。
梅雨の前後のじめっとした嫌な季節に身を置いて、自分の人生を勝手気ままで人騒がせな一人の女性と関わり合うだらしない男たちを描いた、まさに永井荷風自身を描いたような小説である。
ここで注意しなければならないのが、「カフェー」という名前の場所だ。
今の「カフェ」とは違うのだ。
フランス語で「カフェ」とは、喫茶店だが、日本には「カフェー」という明治にオープンしたこの店の中身が実に面白いのだ。
明治後半から銀座を中心に東京には数々の「カフェー」が開業した。
1911年(明治44年)12月13日朝刊3面には<新しき珈琲の 香 ひ>という記事がある。
<世界本場の珈琲を飲ませるといふ京橋区南鍋町のカフェー、パウリスターは 愈 よ十二日から開業した>< 卓子 は 悉 く大理石で快い、卵白色の 籐 椅子に腰を 下 すと藍と白で縁取つた 焦茶天鵞絨 の服を着たボーイがメニユーを持つて来る>と、店内の様子が紹介されている。
カフェーパウリスタは、ブラジルに移住した水野龍氏が、本場のコーヒーを日本に広めるため、サンパウロ州政府から無償で豆の提供を受けて始めた店で、菊池寛や芥川龍之介ら文学者にも愛された。同じ銀座のカフェープランタンなど、喫茶店は芸術家や文化人が集まる社交場になっていた。
1923年(大正12年)の関東大震災でカフェーパウリスタの建物は失われた(70年に銀座で再オープンし、現在も営業中)ものの、復興後の東京には喫茶店やカフェーが急増した。25年(大正14年)の記事によると、東京都にはカフェー2909軒があり、働くウェートレスは1万3000人に上ったという。
ただし、このカフェーの多くは、「喫茶店」とはかなり違う。
同じ25年に20回にわたって朝刊に連載された「カフエー漫話」という連載の第3回(11月14日掲載)では、カフェーを3種類に分類している。
第一は、当時「女給」と呼ばれた女性従業員を目当てに客が訪れる店で、<その 為 めに店の方ではなるべく美しいのを出来るだけ置く>とある。
第二は<酒をのんで天下泰平の 管 をまかふと云ふ目的で客の来る店>という。
第三のは<プロムナードの軽い 疲 を休めようとする人達>などがコーヒーを飲む店で、これが我々が知る喫茶店である。
この時代、急増した「カフエー」の多くは、ここでいう第一、第二の、酒を提供する店だった。特に第一のタイプは今のナイトクラブやスナックに近い。
永井荷風が31年(昭和6年)に発表した小説「つゆのあとさき」の主人公はカフェーの女給である。
店に訪れる小説家らの客たちと奔放に交際したり、新聞にゴシップ記事を書かれたりしたらしい。
カフェーを舞台に、男女間の愛憎に端を発するトラブルも増え、過剰な接待ぶりも含めて、警察の規制・取り締まりは厳しくなっていった。
このように、酒を提供したり女給が接待したりするカフェーは行政から「特殊飲食店」と分類され、それらと区別する意味で「純喫茶」という呼称が生まれたようだ。
とにかく、永井荷風という人は、しっかりした家庭で育ちながら、自分自身はきちんとした家庭を持ち、立派な子供たちを育て上げることなど全くできなかった、相当おかしな人間だった。
2度結婚したが、半年も経たないうちに2度とも離婚している。
その後は、妻を持たず、東京下町のカフェーやバーやキャバレー、遊郭などを渡り歩いて、そこに生きる女性たちと深い関係になりながら、小説のネタを集めては、出版するという、異色の文筆家だったのだ。
この作品も、自分勝手に男を渡り歩く女性や、まじめに生きていこうとする気がない女性など、おそらく荷風の周りに実在したであろう女性たちをしっかり描いている。
永井荷風の年表によれば、この小説を刊行したのは、1931年だったようだ。
その前後の荷風の動きは以下の通り:
- 1912年
- 9月 - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
- 1913年
- 1月2日 - 父久一郎死去。家督を相続。
- 2月 - 妻ヨネと離婚。
- 1914年
- 8月 - 八重次と結婚式を挙げる。実家の親族とは断絶する。
- 1915年
- 2月 - 八重次と離婚。
- 5月 - 京橋区(現中央区)築地一丁目の借家に移転。
- 1916年
- 1月 - 浅草旅籠町一丁目13番地の米田方に転居。
- 3月 - 慶應義塾を辞め、『三田文学』から手をひくこととする。余丁町の邸の地所を半分、子爵入江為守に売却し邸を改築。
- 5月 - 大久保余丁町の本邸に帰り、一室を断腸亭と名づけ起居。
- 8月 - 「腕くらべ」を『文明』に連載( - 1917年10月)
- 9月 - 旅籠町の小家を買い入れ別宅としたが、1か月余りで売却し断腸亭に帰る。
- 1917年
- 9月 - 木挽町九丁目に借家し仮住居とし無用庵と名づける。9月16日 - 日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)。
- 1918年
- 12月 - 大久保余丁町の邸宅を売却し京橋区(現中央区)築地二丁目30番地に移転。
- 1919年
- 12月 - 「花火」を『改造』に発表。1920年
-
- 5月 - 麻布区(現港区)市兵衛町一丁目6番地の偏奇館に移転。
- 1923年
- 5月 - 来日したヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーの演奏を帝国劇場で聴く。
- 1926年
- 8月 - 銀座カフェー・タイガーに通い始める。
- 1936年
- 3月 - 向島の私娼窟玉の井通いを始める、
この映画の中に出てくる「売り出しの流行作家・清岡」という人物が、おそらく永井荷風本人をモデルにしているのだろう。
遊び人で、家庭をすっぽかし、カフェーの女給にうつつを抜かすという不良青年が、いかに男から男に飛び回るような好色で可愛い女性像を愛していたかが分かる作品だ。
この映画は、残念ながら、映画の看板しか残っていない。
動画配信もレンタルも無く、DVDもVHSも見当たらない。
映画のレビュー記事も発見できず、もはや幻と化している映画である。
ところが、この作品のリメイクが2024年6月に公開されるようだ。
追って、この新作をレビューしたい。