「いつか見た風景」
(原題:Storia di ragazzi e di ragazze)
1989年公開。
結婚を機に都会的な家族と農民気質の家族とが交わる様子を描いたコメディ。
監督・脚本:プピ・アヴァティ
キャスト:
シルヴィア:ルクレツィア・L・D・ローヴェレ
アンジェロ:ダヴィデ・ベキーニ
ジュリオ:アレッサンドロ・アベル
マリア:アンジョラ・バッジ
アメリア:アンナ・ボナイウート
バルド:マッシモ・ボネッティ
あらすじ:
一九三六年二月の北イタリア。
ポルレッタ・テルメの農家。
ここにまだファシズムの影はない。
農家の娘シルヴィア(ルクレツィア・L・D・ローヴェレ)は、ボローニャの良家出身のアンジェロ(ダヴィデ・ベキーニ)との結婚を前に家族たちと宴会の支度で大わらわだった。
それなのに父親のジュリオ(アレッサンドロ・アベル)は、浮気相手が誰とでも寝る女だと妻のマリア(アンジョラ・バッジ)に言われてショックを受け、ベッドにふて寝した。
婚約祝いには両家から三十人もの親戚が集い、二十コースにも及ぶディナーが出された。
風変わりなシルヴィアの親戚と、都会的なアンジェロの親戚とでは何もかもが異なっている。
宴会もたけなわの頃、ジュリオは美人のアンジェロの母アメリア(アンナ・ボナイウート)の隣へ座り、そこから離れなかった。
シルヴィアの兄バルド(マッシモ・ボネッティ)は、客に愛用の猟銃を見せて誤って暴発させ、マリアを負傷させる。
さらに、ロレッタ叔母さんは、ささいなことでシルヴィアやマリアと口論をした。
こうした騒ぎを恥じたシルヴィアは、泣き出した。
礼儀をわきまえないような親戚がいる自分には、良家のアンジェロがふさわしくないような気がした。
夕方、祝宴が終わった。
いくつものハプニングを経て、いつしか両家は親密な絆で結ばれていった。
コメント:
ファシズム時代のイタリアを舞台に、農家での結婚式を中心に家族たちの群像を描いた人間ドラマ。
原題の「Storia di ragazzi e di ragazze」とは、「少年と少女の物語」という意味である。
イタリア北部のエミリア・ロマーナ州の都市ボローニャと、その近郊の農村の娘の結婚式の式次第のほぼ24時間をユーモラスに抒情詩のように描いている。
「いつか見た風景」という日本語タイトルはあまりにも適当だが、映画を観終わってみれば、なるほど日本人でもいつか見たような気分になる優しく懐かしい映画なのである。
意外とこのネーミングは当たっているのだ。
全体のつくりは、ドキュメンタリーのようで、北イタリアの農家とボローニャの邸宅の室内風景が交互に描かれている。
ボローニャという「都会」の中でやや高い社会的位置にある一家と、名もなき農村の一家。
この二つの家族の価値観や風習の違いをユーモラスに描いたものである。
未来の花婿とその家族を迎える山間部にある農村家庭では、準備でてんてこ舞い。
何処の家族もそうであるように完全なる家庭と云うものはない。
農家の主人は町に勤め先があるようで女性の問題を抱えている。
今日もそのことを家内に指摘されて二人とも躁鬱の起伏の波状攻撃を如何ともしがたい。
彼らの祖母に当たる老婦人は毎晩自分の葬儀に誰を呼ばないかと云う名簿作りに生きがいを残していて、それを式の途中で暴露される。
誰もが平々凡々たる日常に満足できていないのである。
そのほかにも式では家の長男が俄か猟師になって銃で仕留めた昨夜の獲物が肉料理として出て来る途中に散弾銃の銃痕が出てきて全員で吐き出したり、会話の途中で子だくさんで性的欲求不満に陥った婦人を夫がなだめたりと、イタリア映画らしい奇想天外な部分がてんこもりだ。
ボローニャの家族にしても、長女夫婦は長年子供が無いらしく、そのことが車中で話題になる。
次女はローマで別れた新聞記者に未練を残している。
自分でも綺麗に別れたと思っているはずなのに今でも彼が書いた記事が新聞に出るたびに買い求めていたりする。
婚約式のハプニングの中でも最大のものは、銃の暴発事件だ。
農家の長男が自慢で出した件の散弾銃が弾を抜き取っていたはずなのに、隣室で暴発する。
誰か怪我人が出たようなのだが、お目出度い式場ゆえに表ざたに出来ない。
盛んに隣室からは、腕を負傷したとか、包帯をどうしろとかと云う話が漏れ聞こえてくる。
貴婦人然としたボローニャ側の婦人たちは、事の異常さに、お互いに顔を見合わせるばかりである。
さらにもう一つのハプニングは、定期的に田舎に家族で休暇を過ごしに来るメガネ商人がこの日、ビックリするような若い娘を伴って黒塗りの高級車で訪れるシーン。
彼らとの関係は長年の親せき付き合いに類したものでもあるようだ。
要するに不思議な夫婦である。
何もこんな不倫のカップルをと、封建的な農家の家族は息巻くのだが、これには事情があって、メガネ商の紳士は不治の病に取りつかれて余命いくばくもないと云うことが明らかにされる。
どうも、公認の秘め事の最後の逃避行ということのようだ。
しかし、身分、社会的環境、習慣も異なった二つの家族のこんな混乱も、婚約者同士のエンゲージリング贈呈と云うクライマックスを迎える頃はすっかり落ち着いてくる。
あるものは式場や食器や食卓の片づけに、ボローニャ側の娘たちとその配偶者たちは列車が出るまでの待ち時間のしばしの休憩に仮眠をとる。
そして階下ではテーブルクロスがめくられた剥き出しの木のテーブルで両家の婦人と父親はしみじみと花の宴の余韻に浸る会話を交わす。
元来が好色であるがゆえに、初めて見る都会の貴婦人然とした婦人にころりとまいったのかも知れない。
さらにこの席には、ふしだらと思われていた初老のメガネ商人と若い娘がテーブルを隔てて加わって来る。
そして二人のなれそめの一部始終が本人たちから明かされる。
人は死を前にして情念の鬼になることもあるが、純粋さに回帰することもあるようだ。
その話を、夫を亡くしたボローニャの婦人と、若い娼婦との付き合いで喧嘩が絶えない主人が同時に聴く。
しんみりとした場面である。
北イタリアの山村が美しい夕日に暮れていく。
親子ほどにも年齢差のある不思議な「不倫」カップルは、許嫁の二人に銀色の陶製の像の置物を祝福して贈る。
返礼に結婚式ではまたお会いしたいと云うのだが、多分その頃までは生きていないだろうと云う。
最後は田舎の停車場の別れの場面である。
ボローニャから初めて山間の農村を訪れた淑女たちも、そこに暮らす人々への好感を残す。
最後にボローニャの婦人は列車の窓を開けて長い一日の感慨を持って星空を仰ぐのであった。
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