「くの一忍法」
1964年10月3日公開。
中島貞夫の監督デビュー作。
「くノ一」という言葉を日本中に知らしめたのはこの一作。
R-18(旧成人映画)指定。
原作:山田風太郎『くノ一忍法帖』
脚本:倉本聰、中島貞夫
監督:中島貞夫
キャスト:
- 千姫:野川由美子
- お眉:芳村真理
- お由比:中原早苗
- お瑶:三島ゆり子
- お喬:金子勝美
- お奈美:葵三津子
- 鼓隼人:大木実
- 七斗捨兵衛:待田京介
- 般若寺風伯:吉田義夫
- 雨巻一天斎:山城新伍
- 薄墨友康:小沢昭一
- 徳川家康:曽我廼家明蝶
- 阿福:木暮実千代
- 服部半蔵:品川隆二
- 真田幸村:北村英三
- 猿飛佐助:市川小金吾
- 坂崎出羽守:露口茂
あらすじ:
大阪落城の前夜。
真田幸村は豊臣の血が断絶するのを恐れ、信濃の女忍者、お喬、お眉、お瑶、お由比、お奈美の五人に命じて、秀頼の子供をみもごらせた。
一方、千姫はこの五人の女忍者を連れて、大阪城を脱出したが、探知した家康は、豊家の血を断絶せんと伊賀忍者、鼓隼人、七斗捨兵衛般若寺風伯、雨巻一天斎、薄墨友康の五人に、女忍者殺害の命を与えた。
千姫御殿にとじこもった千姫に坂崎出羽守は強引に結婚を迫ったが、家康はこれを受けつけなかった。
業を煮やした出羽守は三人の家臣を千姫御殿に差し向けたが、信濃忍法筒涸らしの術により殺害された。
家康派遣の伊賀忍者の薄墨は、くノ一化粧の術でお奈美を仕止め、お奈美になりすましたが、お奈美が死に際にかけた月の輪術にかかり命を断った。
薄墨の後を引きついだ一天斎は、伊賀忍法花開きの術で、お喬に男の匂いをふりかけた。
お喬は男の身体を狂い求め、最後に、信濃忍法天女貝の術により一天斎の身体をはさんだ。
そして一天斎はお眉の手裏剣で倒れた。
狼狽した家康は二の丸改築の人柱を差し出すよう千姫に命じた。
お眉は自ら人柱をかって出ると、竹千代の乳母阿福を裸体にして、阿福にからみつき阿福の体内に胎児をうつしかえた。
お眉は忍法やどかりの術で虎口を脱したが、忍法日影月影の術にたけた風伯は、阿福の変化を知り堕胎の手術を行うことになったが、お瑶は胎児をお眉に移すと、筒涸らしの術で風伯を倒し、阿福の体から胎児を奪い返した。
その頃、隼人は、千姫の美しい裸体をかいま見、強く魅せられていた。
千姫は、お眉、お瑶、お由比の嘆願で、出産が終るまで人里離れた山中に逃れることにしたが、動きを探知した隼人、捨兵衛は後を追った。
伊賀忍者の気配を嗅ぎつけたお瑶は、捨兵衛と対決したか、伊賀忍法鞘おとこの術でお瑶は倒れた。
その捨兵衛をお眉は倒したが、自分もまた崩れた。
生き残った千姫とお由比は、洞窟の中に潜んだが、半蔵のひきいる黒鍬衆の鉄砲で、陣痛の始まった由比を射たれた。
由比は重傷の中で男子を出産した。
千姫は、赤子を抱きしめて、秀頼の子とともに江戸域に入った。
千姫を守っているのは、今は千姫を愛している隼人であった。
コメント:
1960年9月号から1961年5月号まで連載された山田風太郎の時代小説「忍法帖」シリーズ第4作『くノ一忍法帖』最初の映像化作品。
映画のタイトルは『くノ一忍法』。シリーズ化され、計3作が作られた。
「くノ一」(女忍者)とタイトルに冠された最初の映像作品で、今日続くお色気時代劇の1ジャンル"くノ一忍法帖モノ"の元祖と見られる作品。
また1960年代後半から始まる東映エロ路線「東映ポルノ」の先駆けとなった一本である。
ピンク映画の歴史が書かれた『シナリオ』1970年12月号の記事に「ピンク映画初の時代劇は1965年製作の3本」という記述が見られるが、本作はこれより早い1964年10月3日公開であることから、実際には本作「くの一忍法」が日本映画初のエロ時代劇であると考えられる。
しかし、よりによって、東大出の秀才なのに、東映入社後初の監督作品が、なんでエロ映画だったのか?
信じられない。
こんな運の悪い人間がいるだろうか。
こんな作品でも東映所属の監督である以上引き受けるしかなかったのだろうが。
ところが、この無謀とも言えるエロ時代劇をてがけることによって、中島貞夫という名前は全国に知れ渡ることになったのである。
人間、やってみなければ分からない!
とにかくこの映画は、初物づくしの作品なのだ。
まず、その頃の日本には「くノ一」という名詞は全くと言って良いほど認知されていなかったのだ。
山田風太郎ファンで、彼の時代小説「忍法帖」を連続して購読していた人しか知らなかったのだ。
なぜ「くノ一」というのが女忍者なのかご存じだろうか。
「くの一」とは、ひらがなの「く」と、カタカナの「ノ」、そして漢字の「一」である。
この三つを重ねて書くと「女」になる。
漢字の「女」を分解すると「く」「ノ」「一」になることから、忍者の隠語で「女性」のことを指し、のちに「女忍者」を言うようになったという。
一説には、人体には九つの穴(目、耳、鼻、口、へそ、肛門)があり、女性にはもう一つ穴があることからや、元々は陰陽道における房術を示す「九一ノ道」が本義とする説もある。
山田風太郎の『くノ一忍法帖』が大ヒットするきっかけにもなったこの映画は、「くノ一」を全国に知らしめることにもなったのだ。
「流行語大賞」受賞確実の快挙だ。
原作と本作映画との相違として、戦死した真田幸村と猿飛佐助が事の成り行きを見届けるため幽霊として現世に残り、登場する忍法を解説するという形式をとっている。また丸橋や徳川頼宣は登場せず、後半のストーリーを簡略化している。
せっかくなので、この映画が誕生するまでの逸話を記しておきたい。
東映の岡田茂プロデューサー(のち、同社社長)は、1962年の東映東京撮影所(以下、東撮)所長就任以降、世代交代を強烈に推し進め、それまでの大スターや大監督は次々東映を去った。
1964年に東映京都撮影所(以下、京撮)に所長として復帰した岡田は京撮のリストラと平行して、任侠映画路線への転換を計っていたが、新人の育成を企図し、まだ助監督経験5年目の中島貞夫を監督デビューさせたのが本作である。
中島は岡田の東大の後輩であった。
中島は、当時組合活動に熱心で鈴木則文たちと会社の批判ばかりやっていて、岡田との団交が何度ももたれた。
「オマエ、能書きばっかりたれとらんと、企画の1本でも出さんかい!」と言われた中島は、とっさのことで、どうせこちらの企画が通るなずもないと、茶化したつもりで、たまたま読んでいた「"くノ一忍法帖"なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。
当時、山田風太郎原作の同書はベストセラーになってはいたが、男女の忍者が“アレ”と“ソレ”を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった。
ところが数日後、中島は岡田に呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われた。
さらに数日後、「あんなん監督やるもん誰もおらん、お前やってみい」「裸、バンバン入れてなァ」「自分で言い出した企画で一本撮れるなんで、幸せやでえ」などと言われた。
岡田がこの企画を取り上げる気になったのは、くノ一が様々なセックス秘技を繰り出して老忍者の精を吸い取って殺すお色気ものと知ったからである。
中島は、監督に昇進するときは山本周五郎の『ちゃん』あたりでと秘かに期していたのに、このままではデビュー作がエロ映画になってしまう。
脳天割りのようなショックを受け、所長室の床で土下座して岡田に許しを請うた。
しかし、30歳前に一本映画を撮りたいという自分の気持ちとの葛藤で揺れた。
今井正に「君、監督になるにはあと10年かかるよ」と言われていたこともあって、やむなく承諾した。
萬屋錦之介からは「お前とは絶交だ」と言われたが、助っ人を東大の同期生の倉本聰に頼んだ。
中島と倉本は東大在学中に共にギリシャ悲劇研究会を創立した親友で、倉本は当時ニッポン放送を辞めてフリーとなり、日活で映画のシナリオを書き始めた頃だった。
本作で中島は監督デビューを果たした。倉本の本作の脚本料は10万円だった。
倉本聰が中島に連れられ京撮へ。
初めて岡田茂に会った時の印象について「その柄の悪さ、体のでかさ、声の大きさ、てっきり本物のやくざだと思った」と話している。
開口一番、岡田「お前か、中島の同級生ちゅうんわ」
倉本は、岡田から
「こいつ(中島)は働くのはよう働くが、頭でっかちで大学の映研や。
当る映画がちっとも判っとらん。
それで面白い原作とって来てやった。
山田風太郎の"くの一忍法帖"や。
女という字を分解してくの一や。
女忍者がセックスを武器に男の忍者と闘うんや。
エロや!
全編これエロ、やりまくりや。
うちの女優をバンバン脱がす。
全く新しい時代劇や。
ヌーヴェルヴァーグやでぇ!」
と言われたという。
1964年当時は、大手映画会社がエロや残酷描写を扱い始めた時期だった中島と倉本はそれらエロ映画のくくりに入るのは嫌で艶笑喜劇を考えた。
しかし物凄い原作のエロ描写に中島と倉本は「照れずに書こうぜ」と励まし合いながら溜息をつき、東大美学科の教授が知ったら何て云うだろうと囁き合った。
おおまかな箱書を中島が書き、残り大半は倉本が書いた。
企画を通す際には、岡田の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があった。
面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫ぶ。
途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという。
倉本は、御前本読みがあると聞いてビックリ仰天。
書くには書いたが、人前で「忍法筒涸らし!」なんて読めるもんじゃない。
結局ジャンケンで負けた中島が読むことになった。
倉本は
「岡田茂の御前本読みは一寸見事としか云いようがなかった。
目を閉じ、腕組みをし、汗を流しながら朗読する中島の本読みをじっと最後まで聞き終わるや、あすこはこうせい、あすこはもっと過激にせい、あすこはくノ一にヒイヒイ云わせい、ラストのつめは甘すぎるから三分の一くらいに削ってしまえ」
などと何とも的確なダメ出し。
この人の集中力と批評眼は天才であると感嘆した」などとその感想を述べている。
倉本は、これが縁で「ニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない。映画をどうしてもやりたい」
と、東映に籍を置かせて欲しいと中島を介して岡田に頼んできた。
岡田は
「最初にできた倉本脚本は、ただ助平なだけだったので、もっと女の魔性を描く内容に書き換えさせた」、
「のちに倉本はどうして黙って聞いているだけで、直すところを分かったのかと不思議がっていた。
僕に一つ特技があるのを知らないのだ。
ホンを読むときや、聞いているときは絵を思い浮かべて頭に入れている。
ダメなところをちょっとメモに書いておけばいい。
結局、倉本は非常に脚本に興味をもって、その道に進んだ」
などと述べている。
当時の東映の新人監督のスタートは全部白黒で1000万円だったが、2000万円のカラー作品として予算が組まれ、新人監督のデビュー作としては格別の条件だった。
岡田は京都転勤前に東映東京撮影所で企画した『二匹の牝犬』が営業の猛反対を受け、カラーに出来なかったことを悔やんでいた。
しかし女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航した。
それまで京撮の作品は健全娯楽を謳う"明るく楽しい東映映画"のオンパレードで、女優が脱ぐなど革命的な出来ごとだった。
京撮で若い女優を脱がせるのは初めてだったのだ。
当時はメジャー映画会社の女優が脱ぐなどということは考えられない時代。
話を持っていっても、断られることが多かった。
東映以外でも女の裸が登場する時代劇はほとんどなかった。
岡田の指示は、他社から脱ぐ女優を連れて来るのではなく「(東映の)脱がない女優を裸にしろ」だった。
アレを駆使して秘術を尽くすと聞いては、おいそれと話にノってくれる女優はいない。
千姫の野川由美子、お由比の中原早苗、お眉の芳村真理、阿福の木暮実千代までは何とか決まった。
問題は「忍法筒涸らし」を使うお瑶役だ。
これを聞くと女優は総尻込みだった。
やむなく京撮のニューフェース出身者から抜擢することになった。そこで白羽の矢が立ったのが三島ゆり子だった。
三島に逃げられては撮影が始まらない。
監督の中島は、彼女に裸になれとは言えず、色々能書きを並べて理屈をこね回し汗だくだくで説得すると「やってみます」と三島が言ってくれた。
あとで聞いたら「何言ってんだかチッとも分からなかったけど、あの汗見てたら断れなくなった」と言われた。
三島は本作で豊満な肉体を披露し以降、汚れ役に大胆に取り組んだ。
映倫から台本の段階で幾つか指定が来て先の「忍法筒涸らし」は映画では「忍法霞からし」に変更させられた。
ようやくクランクインとなり、スタジオの入口には「関係者以外立ち入り禁止」の札を掲げガードマンが付いた。
スタッフは緊張の連続で、汗かきの中島はいっそう汗だくになりようやく完成をみた。
しかし試写を観た岡田は「何だ、裸が少ないぞ!」とクレームを付けたという。
関西大学の映研や『映画芸術』などでは高い評価を得た。
また『アサヒ芸能』がこの年の「へんてこな映画」のベスト5に選出した。
中島は本作で、京都市民映画祭新人監督賞を受賞している。
中島は2014年初開催されたこの映画祭の後進である京都国際映画祭実行委員長を務め、同映画祭の立ち上げに尽力した。
本作が重要なのは女性忍者が主人公の時代劇であるという点だ。
原作は男の忍者の側から描いているが、映画は女の側から描かれ、女優側にネームバリューのある役者が揃えられている。
しかも集団であることから、後の『大奥㊙物語』などの"集団女性時代劇"の先駆けになったと評価された。
くノ一が登場する最初の映像作品は、同じ東映の本作の前年、1963年の加藤泰監督『真田風雲録』での渡辺美佐子演じる"むささびの霧"といわれる。
中島貞夫はこの『真田風雲録』でも意見を出していた。
この"むささびの霧"は、ミニスカート風の着物に網タイツを履いており、後の創作物に於けるくノ一の一般的なビジュアルイメージとなったとされる。
しかし『真田風雲録』での"むささびの霧"は、主演・中村錦之助の他、真田十勇士の一人として登場するため主役ではない。
『くノ一忍法』は主役も女優で、しかも集団である。
本作は、その後の女忍者を主人公にした劇映画やテレビドラマ、オリジナルビデオ、アダルトビデオの元祖となったのだ。
「くノ一」という言葉がメジャーとなったのは、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』が刊行されてからであるが、同作品中での説明では「女という字を分解すればくノ一となる。すなわち"くノ一"とは"女"をあらわす忍者の隠語であった」と説明されている。つまり元々は、"くノ一"必ずしも"女忍者"ではなく、"女そのもの"を指す言葉であった。
1963年12月に講談社版の〈山田風太郎忍法全集〉で『くノ一忍法帖』が刊行されて、爆発的な忍法ブームが起きたが、この書でも内容紹介に「くノ一」という言葉がなく、ただ「五人の女忍者」となっていたのに対して、1967年5月に講談社ロマンブックス版では、"くノ一"という一文が見えることから、1964年から1967年の間に、くノ一=女忍者、の図式が浸透したことが分かる。
本作『くノ一忍法』は、その間に作られた映画なのである。
山田風太郎は本作の撮影見学に何度も訪れた。
「こういう方向でいきたい」と中島が言ったら山田は凄く乗ってくれ、励ましてくれたという。
中島は「当時は"くノ一"はまだ普通名詞になってないんです。だから"くノ一"は何だってことを、分からせるところから映画を始めなくてはならなかったんですよ」と述べている。
つまり、中島貞夫という人は、映画監督デビューの時から、新しい映画を作り出す先覚者だったのだ。
『くノ一忍法』はヒットし岡田から第二弾の製作指令が出た。
「第一作では裸が少なすぎた。次はもっと盛大に女優を脱がせろ」と、中島の苦しみなどどこ吹く風の指示が出て、中島は続編『くノ一化粧』を製作した。
中島はその後も小川知子や大原麗子ら、女優を脱がせる仕事が増えていく。
大原にシクシク泣き出されたときには胃も胸もチクチク痛み、以来、女の裸を見ると胃が痛むようになり、今も治っていないという。
『くノ一化粧』もヒットし、中島はシリーズ第三作『忍法忠臣蔵』も岡田から打診を受けていたが拒否し、監督は長谷川安人に交代している。
デビュー作が『くノ一忍法』になったことでその後の中島貞夫の歩みは決定付けられた。
中島曰く「エロとやくざの二足のわらじ」を履くことになった。
この映画は、TSUTAYAでレンタル可能: