「南京の基督」
(なんきんのキリスト)
(英題:The Christ Of Nanking)
1995年12月9日公開。
芥川龍之介原作の香港・日本合作映画。
原作:芥川龍之介「南京の基督」「歯車」「或阿呆の一生」
脚本:陳韻文
監督:トニー・オウ
キャスト:
- 岡川龍一郎:レオン・カーフェイ(梁家輝)
- 宋金花:富田靖子
- 岡川の妻:中村久美
- 藕香院の主人:ラウ・シュン
- 譚永年:トォオ・ツォンホウ
- 山茶:ジェシカ・チャウ
- キリスト:マーク・カスバーグ
あらすじ:
20年代。新聞社の依頼で中国・南京を訪れた作家の岡川(梁家輝)は、帝大時代の同級生・譚永年(ツォ・チョンファ)の誘いで遊廓へ行く。
道すがら、彼は無邪気な少女・金花(富田靖子)に出会った。
彼女は年老いた父のために金を都合しようと従姉妹の山茶(鄒静)のいる遊廓、藕香院を頼ってきたところだった。
粗末な壁に書けた十字架に熱心に祈りを捧げる金花の純粋な姿が、疲れ切った岡川の心をとらえる。
借金を返すため、金花は岡川にその身を任せた。
郊外の別荘へ金花を連れていった岡川は、彼女がそこにいるだけで創作意欲が沸き上がり、持病の頭痛も嘘のように消えた。
蜜月を味わう二人の元へ永年が届けた電報は、東京の岡川の妻が二人目の子供を生んだという報せだった。
金花はショックを受け、キリストが禁じている重婚の罪を犯した岡川を激しくなじる。
父親の訃報も重なり、彼は急いで東京へ帰ることになった。
南京駅の雑踏で、岡川に別れを告げぬまま姿を消す金花。
一度は故郷へ帰ったものの、再び藕香院に舞い戻った彼女は、客から性病を移されてしまう。
他人に移せば治る、と仲間は言うが、「誰にも病気を移さず、一人で死んでいけばキリストが天国に連れていってくれる」と信じる金花は、頑に客を取らなかった。
彼女の病状は次第に悪化し、肺病まで併発する。
そんなある夜、金髪の男(マーク・カスバーグ)をキリストだと信じた彼女は体を許してしまう。
翌朝、身体から性病の斑点が消えており、彼女は「キリスト様が直してくれた」と無邪気に喜ぶ。
帰国してからも金花が忘れられない岡川は、永年からの手紙で彼女の病気を知り、治療のため日本に連れ帰ろうと決意。
金花は岡川との再会を子供のように喜ぶ。
だが、キリストの正体が、女好きな海外特派員であることを知った岡川は怒りに駆られ、彼を殴り倒すが、金花はその一部始終を見てしまう。
金花の身体の斑点は、以前よりひどくなった。
一緒に日本へ行こうとの誘いを激しく断る彼女の目は、既に狂気を帯びている。
彼女の夢を壊したのでは、と岡川は自分を責め、心中するつもりで彼女を抱こうとするが、激しく拒絶される。
永年の説得で日本に帰ることになった岡川は、悄然と駅への道を歩き始めた。
その時、金花が必死で彼を追い始め、今にも倒れそうな彼女を気遣う小僧が、馬車でその後を追う。
南京駅へと続く鉄路で抱き合う二人。
だが、金花は間もなく眠るように息を引き取った。
帰国した岡川は創作の壁に突き当たり、幻覚に怯え、睡眠薬自殺した。
枕元には読み古された一冊の聖書があった。
コメント:
原作は、芥川龍之介の「南京の基督」を主体としているが、さらに「歯車」と「或阿呆の一生」からも脚本に採用されている部分があるという。
この映画は、日本・香港合作となっているが、スタッフ陣はほとんど香港が占めている。
監督は『夢中人』『さらば英雄 愛と銃撃の彼方に』(共に日本ではビデオ発売のみ)のトニー・オウ。
脚本は、芥川の熱烈な愛読者であり、香港ニューウェイヴの牽引役である、本作が久々の映画作品となる陳韻文。
撮影は「フルムーンインニューヨーク」『ルージュ』(V)の黄仲標。
美術は「スウォーズマン 女神復活の章」「キラーウルフ/白髪魔女伝」の馬磐超。
音楽のみ日本から「トカレフ」「居酒屋ゆうれい」の梅林茂が参加。
主演は、芥川の分身ともいえる日本人作家に「黒薔薇VS黒薔薇 kurobara tai kurobara」「ドラゴン・イン」のレオン・カーフェイ(梁家輝)。
相手役の少女に、「釣りバカ日誌スペシャル」の富田靖子が扮し、美しい裸身も晒して体当たりの熱演を見せている。
共演は「風櫃の少年」「息子の告発」のツォ・チョンファ、「Love Letter」の中村久美ほか。
原作『南京の基督』を久しぶりに読み返してみたが、とにかく面白い。
芥川の技巧の冴えた傑作短編の一つとして、評価の高い作品である。
この『南京の基督』という短編小説は、谷崎潤一郎の『秦淮の夜』という随筆に依拠しているという。
この作品には〈本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「秦淮(しんわい)の一夜」に負ふ所尠(すくな)からず。附記して感謝の意を表す。〉との謝辞が付されて、谷崎の小説に依拠したことが示されているのだ。
谷崎潤一郎の『秦淮の夜』も読んでみたが、これも実に面白い。
大正時代には、日本から芥川龍之介が新聞社の仕事で中国に出張して、上海付近や北京などを訪問しているが、谷崎潤一もが実際に上海や南京などの江南地方を旅して、さまざまな人たちと交流していた。
当時の中国では、孫文が革命を起こして、日本の明治維新のような様相を見せていた。
中国の青年たちは日本を尊敬していて、日本の文学にも熱中する状況にあった。
『秦淮の夜』を含む谷崎潤一郎の『上海交遊記』という随筆集を見ると、当時の様子が面白おかしく綴られていて興味深い。
『秦淮の夜』というのは、南京市の秦淮区にあった、置屋(遊郭)を深夜中国人ガイドに連れられて巡って行くという谷崎の体験記だ。
そこに登場する超美人の遊女の話や、花月楼(かげつろう)という名前の素人の十七才の可愛い少女に出会った話などが出てくる。
おそらく、芥川は、この花月楼をモデルにして、『南京の基督』を書き上げたのであろう。
原作『南京の基督』の書き出しはこちら:
或秋の夜半であつた。南京奇望街の或家の一間には、色の蒼ざめた支那の少女が一人、古びた卓の上に頬杖をついて、盆に入れた西瓜の種を退屈さうに噛み破つてゐた。
卓の上には置きランプが、うす暗い光を放つてゐた。その光は部屋の中を明くすると云ふよりも、寧ろ一層陰欝な効果を与へるのに力があつた。壁紙の剥げかかつた部屋の隅には、毛布のはみ出した籐の寝台が、埃臭さうな帷を垂らしてゐた。それから卓の向うには、これも古びた椅子が一脚、まるで忘れられたやうに置き捨ててあつた。が、その外は何処を見ても、装飾らしい家具の類なぞは何一つ見当らなかつた。
少女はそれにも関らず、西瓜の種を噛みやめては、時々涼しい眼を挙げて、卓の一方に面した壁をぢつと眺めやる事があつた。見ると成程その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな真鍮の十字架がつつましやかに懸つてゐた。さうしてその十字架の上には、稚拙な受難の基督が、高々と両腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓を影のやうにぼんやり浮べてゐた。少女の眼はこの耶蘇を見る毎に、長い睫毛の後の寂しい色が、一瞬間何処かへ見えなくなつて、その代りに無邪気な希望の光が、生き生きとよみ返つてゐるらしかつた。が、すぐに又視線が移ると、彼女は必吐息を洩らして、光沢のない黒繻子の上衣の肩を所在なささうに落しながら、もう一度盆の西瓜の種をぽつりぽつり噛み出すのであつた。
少女は名を宋金花と云つて、貧しい家計を助ける為に、夜々その部屋に客を迎へる、当年十五歳の私窩子であつた。秦淮に多い私窩子の中には、金花程の容貌の持ち主なら、何人でもゐるのに違ひなかつた。が、金花程気立ての優しい少女が、二人とこの土地にゐるかどうか、それは少くとも疑問であつた。彼女は朋輩の売笑婦と違つて、嘘もつかなければ我儘も張らず、夜毎に愉快さうな微笑を浮べて、この陰欝な部屋を訪れる、さまざまな客と戯れてゐた。さうして彼等の払つて行く金が、稀に約束の額より多かつた時は、たつた一人の父親を、一杯でも余計好きな酒に飽かせてやる事を楽しみにしてゐた。
そして、最後は:
翌年の春の或夜、宋金花を訪れた、若い日本の旅行家は再うす暗いランプの下に、彼女と卓を挾んでゐた。
「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」
その夜彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に真面目になつて、一夜南京に降つた基督が、彼女の病を癒したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。
その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。――
「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と亜米利加人との混血児だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京の私窩子を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼な混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体この女の為に、蒙を啓いてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」
金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに燐寸を擦つて、匂の高い葉巻をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こんな窮した質問をした。
「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度も煩はないかい。」
「ええ、一度も。」
金花は西瓜の種を噛りながら、晴れ晴れと顔を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。
つまり、小説『南京の基督』では、ヒロインの少女は病気を相手の男に移したので、全快した。
そして、相手のキリストに似た男は、日本人とアメリカ人の混血だったが、病気を移されて、発狂してしまったというのだ。
日本人旅行者がそれを思い出したがヒロインにそのことを伝えることはなかった様だ。
映画は、香港のスタッフたちの手で、芥川龍之介の小説「南京の基督」、「歯車」、「或阿呆の一生」を盛り込んだ脚本を創作し、レオン・カーフェイ(梁家輝)が主人公・岡川龍一郎を、富田靖子が可愛らしいまだ少女の遊女である宋金花を演じている。
この映画のストーリーは、『南京の基督』とは異なっている部分が多い。
映画のストーリーは原作とちがって、かなり悲惨だ。
舞台は原作と同じ南京で、主人公も原作と同じ宋金花だが、芥川龍之介をモデルにした日本人作家・岡川が金花と出会い、恋に落ちるという設定になっている。
ヒロインは一時的に病気から解放されたが、再発し、最後は死んでしまう。
相手の青年も、日本帰国後に睡眠薬自殺を遂げるというエンドになっている。
まるで救いがない展開になっていて、カタルシス・ゼロだ。
せっかくの富田靖子のヌードや熱演が無駄になったように感じてしまうではないか。
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