「憂国」
1966年(昭和41年)4月12日公開。
三島由紀夫が原作、脚色、製作、監督、主演を務めた伝説のアート・ムービー。
上映時間がたった28分のモノクロ作品。 |
原作:三島由紀夫「憂国」
監督・脚本:三島由紀夫
キャスト:
- 武山信二中尉:三島由紀夫
- 武山麗子:鶴岡淑子
あらすじ:
昭和11年、「2.26事件」が勃発。
武山中尉は新婚のため、仲間から決起に誘われなかったのだが、皮肉にもかつての仲間たちの鎮圧を命じられる立場になる。
国に忠誠をつくし反乱軍を鎮圧することは、親友達を殺すことを意味する。
国も友も裏切ることができない武山中尉は、最愛の妻・麗子とともに自ら死ぬことを決意した。
そして、愛し合う二人の、想像を絶する「愛と死の儀式」が始まる。
コメント:
原作は、三島由紀夫の同名短編小説。
原題は旧漢字の『憂國』となっている。
1961年(昭和36年)1月、雑誌『小説中央公論』3号・冬季号の〈現代代表作家二十人創作集〉に掲載され、同年1月30日に新潮社より刊行の短編集『スタア』に収録された。
のち1966年(昭和41年)6月に河出書房新社より刊行の『英霊の聲』にも、戯曲『十日の菊』と共に二・二六事件三部作として纏められた。
1965年(昭和40年)4月には、三島自身が製作・監督・主演・脚色・美術を務めた映画『憂國』が公開された。
この映画は翌年1966年(昭和41年)1月、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位となり、同年4月からなされた日本での一般公開も話題を呼び、アート系の映画では記録的なヒットとなった。
また同時に映画の製作過程・写真などを収録した『憂國 映画版』も1966年4月10日に新潮社より刊行された。
昭和11年2月28日、二・二六事件が勃発した。
この事件で蹶起した親友たちを叛乱軍として勅命によって討たざるをえない状況に立たされた近衛歩兵一聯隊勤務の武山信二中尉は懊悩の末、自死を選ぶことを決意し、新婚の妻・麗子に伝える。
すでに、どんなことになろうと夫の後を追う覚悟ができていた麗子はたじろがず、共に死を選ぶことを決意する。
そして死までの短い間、夫と共に濃密な最期の営みの時を過ごす。
そして、2人で身支度を整え遺書を書いた後、夫の切腹に立会い、自らも咽喉を切り、後を追う。
小説『憂国』は、簡素な構成と、〈大きな鉢に満々と湛(たた)へられた乳のやうで〉といった、肌の白さ(妻の肌の美しさ)を表す官能的な描写や、克明に描かれる切腹の迫真さで、短編ながら注目された作品で、三島自身も、〈小品ながら、私のすべてがこめられている〉とし、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのやうな小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編をよんでもらえばよい」と晩年にも繰り返している。
『憂国』は、死とエロティシズムを直結させるジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』に通じる作品構造となっているとされている。
そこに描かれる〈愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福〉と三島は語り、その映画化のねらいについては、以下のように説明している。
「日本人のエロースが死といかにして結びつくか、しかも一定の追ひ詰められた政治的状況において、正義に、あるひはその政治的状況に殉じるために、エロースがいかに最高度の形をとるか、そこに主眼があつたのである。」
— 三島由紀夫「製作意図及び経過」(『憂國 映画版』)
三島由紀夫氏の美意識が、堪能できる映画である。
思想の一端も、描かれている作品という評価になっている。
しかし、常識的に考えれば、「切腹」の直前に、愛する妻と最後の情交を行うということは、まず考えられない。
相手の妻も、その夫の意志にしたがって、情交後の夫の切腹にも立ち合い、その後に自害するという。
夫の切腹のあとを追って妻が自害するというのは、戦国時代ならあったかも知れない。
しかし、その直前に夫婦が最後の愛の交歓をするというのは、絶対にあり得ないだろう。
なぜなら、死を迎えたさむらいが性欲を感じることはあり得ないし、性欲無しにはそういう行為はまず無理だからだ。
見苦しくない立派な切腹を果たそうという男が、その前にこういう行為をするとは!
三島由紀夫という人間は、あらゆる性行為を小説にしている奇異の文学者だ。
当時から、レスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーといったLGBTを理解し、自らもバイセクシュアルの常習者だったようだ。
さらに、常人とは最も異なる部分は、「死」へのあこがれだ。
どうしても、華々しく死んでみたいという欲求を抑えきれなかったのだ。
だからこそ、あの自衛隊の市ヶ谷駐屯地でのバルコニーにおいて、大演説と割腹自殺を成し遂げたのだ。
大事件を起こして、テレビの中継が入っていることを確認して、自害して見せるという。
これはもう、完全に狂人の行為だ。
徳川家康の子孫だという自意識と、大東亜戦争の敗戦後の情けない日本人を覚醒させたいというおごり高ぶった上流意識と、小説や映画を通しての自己顕示欲が高じて起こした事件だったと言わざるを得ない。
まあ、三島由紀夫のこうした行為をなじってばかりいるのは、このブログサイトの本筋ではないので、このくらいで止めておこう。
いずれにしても、三島が残した言葉「日本人のエロースが死といかにして結びつくか、しかも一定の追ひ詰められた政治的状況において、正義に、あるひはその政治的状況に殉じるために、エロースがいかに最高度の形をとるか、そこに主眼があつたのである。」という解説は、詭弁だ。
永遠の愛を信じて、愛し合う男女が心中するという事件は多数あり。それは理解できる。
だが、正義に殉じるためのエロスと自殺などというのは、真っ赤な偽りである。
この映画自体を見た感想は、「色気がない」と言わざるを得ない。
肝心の濡れ場のシーンは、たった7分間の形式的な映像でしかない。
興行成績のデータは全く残っていない。
ある専門家は、「壮絶自己陶酔マスターベーション映画」と評している
こういう異色の小説と映画を残したということで、それなりの価値はあるだろうが。
本作の為に探し出された女優、鶴岡淑子。
なかなか美人であり、品もある。
高潔な軍人の妻という配役には最適だったかも知れない。
この女優は、本名・山本典子。
この映画『憂国』で主人公・武山信二中尉の貞淑な新妻・麗子を演じたことで知られる。
映画撮影のため、麗子役の女優を探していた三島由紀夫と、プロデューサー・藤井浩明の紹介により1965年(昭和40年)2月18日、ホテルニュージャパンで面会。
相手役に抜擢された。
三島は、「彼女のナイーヴな外見や態度に、求めてゐたものが得られたと感じた」とその印象を語っている。
芸名は鶴岡八幡宮より採られた。
三島曰く、鶴岡八幡宮の古風で典雅なイメージを含め、淑子という名で彼女の性格を象徴して、日本女性の美しさを強調したかったからだという。
三島と面会当時、彼女は三島のことは全く知らなかった。
三島の職業がわからず、「あなた、もと大映にいたの?」と訊ねたという。
帰宅した際、母親には、「今日はヤクザみたいな人と会ったわ。でもなんだか偉い人らしかったわ」と言ったという。
2005年(平成17年)8月、それまで現存しないと言われた『憂国』のネガフィルムが、三島の自宅(現在は長男平岡威一郎邸)で発見されたことが報じられ、話題を呼んだ。
映画『憂国』は、後の三島事件の自決を予感させるような切腹シーンがあるため、瑤子夫人が忌避し、三島の死の後の1971年(昭和46年)に、瑤子夫人の要請により上映用フィルムは焼却処分された。
しかし共同製作者・藤井浩明の「ネガフィルムだけはどうか残しておいてほしい」という要望で、瑤子夫人が密かに自宅に保存し、茶箱の中にネガフィルムのほか、映画『憂国』に関するすべての資料が数個のケースにきちんと分類され収められていたのだった。
ネガフィルムの存在を半ば諦めていた藤井浩明はそれを発見したときのことを、「そこには御主人(三島)に対する愛情と尊敬がこめられていた。ふるえるほどの感動に私は立ちつくしていた」と語っている。
これらネガフィルムや資料は1995年(平成7年)に夫人が死去した数年後に発見されていた。
映画DVDは2006年(平成18年)4月に東宝で販売され、同時期に新潮社の『決定版 三島由紀夫全集別巻・映画「憂国」』にも、DVDと写真解説が所収された。
この映画は、今ならYouTubeで全編無料視聴可能。