日本の文芸映画 「めし」 林芙美子の未完の同名小説を映画化! 川端康成が監修! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「めし」

 

 

1951年11月23日公開。

「めし」をテーマにした夫婦の問題を映画化。

 

受賞歴:

  • 第25回キネマ旬報ベスト・テン 第2位
  • 第6回毎日映画コンクール 日本映画大賞、監督賞、撮影賞、録音賞、女優演技賞(原節子)
  • 第2回ブルーリボン賞 作品賞、脚本賞(田中澄江)、主演女優賞(原節子)、助演女優賞(杉村春子)

 

原作:林芙美子

脚本:田中澄江、井手俊郎

監督:成瀬巳喜男 

出演者:

上原謙、原節子、島崎雪子、風見章子、杉村春子、浦辺粂子、花井蘭子、二本柳寛、小林桂樹、大泉滉

 

 

あらすじ:

恋愛結婚をした岡本初之輔(上原謙)と三千代(原節子)の夫婦も、大阪天神の森のささやかな横町につつましいサラリーマンの生活に明け暮れしている間に、いつしか新婚の夢もあせ果て、わずかなことでいさかいを繰り返すようになった。

台所と茶の間を行き来し、夫の飯を装うだけの毎日。

三千代は、この見え透いたくだらない人生に絶望していた。

夫・初之輔は、妻の顔を見たかと思えば飯(めし)を催促する。

ユリと名付けた白猫を可愛がることだけが、三千代の気休めである。

そこへ姪の里子(島崎雪子)が家出して東京からやって来て、その華やいだ奔放な態度で家庭の空気を一層かき乱すのであった。

三千代が同窓会で家をあけた日、初之輔と里子が家にいるにもかかわらず、階下の入口にあった新調の靴が盗まれたり、二人がいたという二階には里子が寝ていたらしい毛布が敷かれていたりして、三千代の心にいまわしい想像をさえかき立てるのであった。

そして里子が出入りの谷口のおばさんの息子・芳太郎(大泉滉)と遊びまわっていることを三千代はつい強く叱責したりもするのだった。

家庭内のこうした重苦しい空気に堪えられず、三千代は里子を連れて東京へ立った。

三千代は再び初之輔の許へは帰らぬつもりで、職業を探す気にもなっていた。

だが、従兄の竹中一夫(二本柳寛)からそれとなく箱根へ誘われると、かえって初之輔の面影が強く思い出されたりするのだった。

その一夫と里子が親しく交際を始めたことを知ったとき、三千代は自分の身を置くところが初之輔の傍でしかないことを改めて悟った。

その折も折、初之輔は三千代を迎えに東京へ出て来た。

平凡だが心安らかな生活が天神の森で再び始められたのだった。

 

 

コメント:

 

原作は、林芙美子による長編小説。

1951年(昭和26年)4月1日から7月6日まで『朝日新聞』に連載されていたが、同年6月28日の著者が心臓麻痺により急逝。

そのため、150回の予定を97回で連載終了し、およそ3分の2を書き上げて未完の絶筆となった作品である。

同年10月に朝日新聞社より刊行された。

昭和26年の大阪を舞台に、ごく平凡なサラリーマン家庭の夫婦の物語を描いている。

 

めし」林 芙美子 - メルカリ


この映画は、名匠・成瀬巳喜男監督が、戦後の日本における男女の問題を鋭く突き付けている作品だ。

男女平等には程遠い当時の日本における現実を描いている。
女性の悲哀が「これでもか」と描かれている。

 

川端康成は、原作にも脚本にも関わっていないが、監修という地味な作業を請け負っている。

林芙美子とは生前親しい関係にあったようで、彼女の葬儀委員長もつとめている。


1800年代において、ノルウェー人のイプセンは、その戯曲の多くで、新しき女の像、自立する女を描いている。
しかし、本作品では「人形の家」のノラに代表される新しき女の像を、描ききれてはいない。
あえて、成瀬巳喜男は描かなかったといった方が良いだろう。
この映画が撮られた1951年の日本では、そのような女性像は夢のまた夢。
「時代が許さなかったのだ」と推測されてしかるべきである。

女性は、結婚して家庭に入り、家政婦のごとく家事に励むことが美徳とされ、女の幸せとされていたのは、敗戦後の混乱した日本社会においての必然であったのかもしれない。
映画の中の台詞をかりれば、「女って1人ではダメね」なのである。

けれども、この映画から70年が経とうとしている現在において、それらの状況が改善されているだろうか?
答えは、否であるだろう。
女性の家事労働は、便利な電気製品によって、徐々に軽減されては来た。
ここでは「便利な電気製品によって」というところが大切で、「男性の力によって」ではないということに注目したい。
つまり、男性の意識はどうであろうか?
自分から率先して、炊事・洗濯・家事・子育てを行っているだろうか?
どこかで、女性に甘えた生活をしているのではないだろうか?
醤油差しへの醤油のつぎ足しを率先してやっているか?
風呂掃除はしても、排水溝まで、きれいにするだろうか?
料理は作っても、後片付けまで完璧にこなしているだろうか?

とかく男性陣は、女性陣に、日々、助けていただきながら生活をしている状況が、現在に至るまで続いているといっても、過言ではないだろう。
いまだに、「男は男らしく、女は女らしく」などとほざく連中がいるところから考えても、男性と女性の地位は、平等とはほど遠いのである。

最後は元の鞘に収まってしまう「めし」ではあるが、最後の、原節子の朗読は、苦しい女性の、主婦の吐露であるのだ。
この映画では、原節子の朗読が、大きなウェイトを占めていると思われる。
彼女の朗読は、現実の心象風景であり、囚われの身といってもいいような、女性の魂の叫びでさえあるのだ。

原節子が列車の窓から、手紙を破り捨てるシーンは、もとの生活に戻ることに対しての覚悟を示しているのだが、上原謙の方は相変わらずであるところが対照的だ。

今後も繰り返されるであろう悲劇の予兆として感じられないだろうか。
そして付け加えておかなければならないのは、映画中でただ1人、奔放な島崎雪子でさえ、結婚したならば、同じような悲惨な運命が待ち受けているに違いない、ということである。

フェミニズムの視点からこの映画を観るならば、70年たっても、日本においては、女性の目覚めは訪れていないといわざるをえないし、70年前にこのことに着眼した成瀬巳喜男の問題意識は評価されてしかるべきであり、古くて新しい作品なのだ。 

 

 

アプレの島崎雪子が夫婦生活に波風を立てる。

「アプレ」という言葉は、フラン後の「アプレゲール」の略。

第一次世界大戦後にフランスで流行ったことばで、「戦後の風潮」といった意味。

それが日本で「太平洋戦争後という意味に転じていった。

戦後の混乱期、従来の価値観、モラル、習慣などが崩壊し、それらに縛られず行動する反体制的・反道徳的な若者たちが見られるようになりました。アプレゲールの省略形である「アプレ」は、そんな若者たちを指す言葉として、日本で用いられ始めた。

 

次第に、「アプレ」は広く若者たちを指して「無軌道」「退廃的」「無責任」「素養がない」などの意味で使われるようにもなっていく。

「彼女はとんだアプレ娘でね」「彼らはアプレだから勉強が足りない」といった感じで使われた。

まさに、このアプレな娘として描かれているのが、島崎雪子だ。

 

無言で米を研ぐ原節子、ぼんやりとパチンコをする上原謙。

ふたりの細かい演技にもそれぞれの心情がちゃんと良く現れている。

煙草の吸殻、空っぽになったふたつのティーカップ―小道具のカットの挿入の仕方もグッド。
夫婦一緒になってビールを飲む。

夫は「美味い」と言い、妻は「苦い」と言う。

当時の夫婦は、こんなものなのかもしれない。

しかしそんな夫婦がまた、縒りを戻して平凡な日常に帰って行く。

 

令和の日本では、夫婦そろって「おいしいね」とビールを飲むのが当たり前になっている。

「女が酒を飲むなんて」という時代ではなくなった。

しかし、夫婦の家庭内での仕事の分担や家計のやりくりなどが完全に平等になされているかというと、まだまだ男性優位の部分が残っている。

最近も、オリンピック絡みで、ジェンダー問題が大きく取り上げられた。

「めし」という映画は、ジェンダー問題も含めて、大いに盛り上がる話題を提供してくれる作品なのだ。

 

 

倦怠期にある夫婦がささいな出来事から次第に亀裂を深めていく様を描く。
夫婦間にある微妙な気持ちの揺れがユーモアを交えながらしっとりと描かれ、じわじわ『めし』と言うタイトルが効いてくる秀逸な構成。
これぞ古き良き映画という感じがするように、互いをいたわる気持ちや思いやりの大切さが、匂い立つように画面から伝わってくる。


戦後間もない中でも生き生きとした人間模様が描かれている。
本作は成瀬監督らしいドロドロ感はあまりなく、当時の女性の幸せを見事に映像に落とし込む。
なにより原節子の繊細で品のある演技は格別に良かった。

彼女の母を演じる杉村春子が、早く夫の元に帰るように語るシーンも良い。

 

 

この映画は、Amazon Primeで動画配信中:

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