いよいよ、米国によって日本が如何にみじめな敗戦に至ったかを突き詰めて行きたい。
ここでは、太平洋戦争勃発までの経緯を、簡単な年表で満州事変から見て行きたい。
1931/9 満州事変
1932/3 満州国の建国
1932/7 ドイツでナチスが第一党に躍進
1932/10 リットン報告書
1933/3 日本が国際連盟を脱退
1933/10 ドイツが国際連盟を脱退
1934/12 日本がワシントン海軍軍縮条約破棄を通告
1935/3 ドイツが再軍縮を宣言
1936/11 日本とドイツが防共協定を締結
1937/7 盧溝橋事件が勃発
1937/8 第2次上海事変の勃発(日中が全面戦争へ)
1937/11 イタリアが日独防共協定に参加。
1937/12 イタリアが国際連盟を脱退
1938/3 ドイツがオーストリアを併合
1939/5 ドイツとイタリアが軍事同盟締結
ノモンハン事件勃発
1939/7 アメリカが日米通商条約破棄を通告
1939/8 ドイツとソ連が不可侵条約を締結
1939/9 ドイツがポーランドに侵攻(第二次世界大戦の開始)
日本が応酬戦争不介入を宣言
1940/6 ドイツがフランスを降伏させる
1940/9 日本が北部仏印に進駐
日独伊・三国同盟を締結
1940/10 米国が屑鉄の対日輸出を禁止
1941/4 日本とソ連が中立条約を締結
1941/6 ドイツがソ連に侵攻
1941/7 日本が南部仏印に進駐
1941/8 米国とイギリスが石油輸出禁止など対日制裁を実施
1941/11 米国が日本にハル・ノートを提示
1941/12 日本が真珠湾攻撃(太平洋戦争の開始)
1931年9月に、満州事変を引き起こし、1932年3月には満州国を建国した日本。
王様は、満州国の執政・愛新覚羅溥儀(あいぜんかくらふぎ)。
清朝最後の皇帝だった人物。
歴史映画「ラストエンペラー」に、溥儀の不幸な生涯が描かれている。
国旗はこれ:
見るからにダサい。
誰がデザインしたのか。
旗地を黄色、旗の左上角は紅、藍(青)、白、黒の4色とし、全体の4分の1を占有するとした。
また、旗の横縦比は6対4(3:2)とされた。
青は東方、紅は南方、白は西方、黒は北方、黄は中央を表し、中央行政をもって四方を統御するという意味であるという。
なんのこっちゃ!
満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
しかし、日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、傀儡国家だったことは疑いようもない。
こんな変な国・満州国でも、そこから何人か有名人が生まれている:
小澤征爾:1935年9月1日
赤塚不二夫:1935年9月14日
板東英二:1940年4月5日
草野仁:1944年2月24日
この勝手な日本の行動に欧米が危険を感じ始める。
そして、1932年10月に、リットン報告書が提出される。
これは、国際連盟に設置された調査委員会(正式名称 :国際連盟日支紛争調査委員会)の通称である。
委員長(団長)はイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン。
1931年9月18日、柳条湖事件が発生し、中華民国国民党政府は、9月19日国際連盟に報告し、9月21日正式に提訴して事実関係の調査を求めた。
同年12月10日国際連盟理事会は「国際連盟日支紛争調査委員会」(リットン調査団)の設置を決議する。
1932年1月14日、理事会は、委員(リットンら5名)の任命を承認した。
同年2月29日、調査団は東京に着いた。
日本、中華民国および満州の調査をおこない、7月4日ふたたび入京した。
1932年3月、国際連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、調査団は3カ月にわたり日本、満州国、中華民国の各地を調査。
10月に理事会に報告書(リットン報告書)を提出した。
報告書では、
- もと不毛の荒野であった満州の住人の大半がいまや支那人でありこれは日本の地域経営の成果である。
- この地域の主要勢力であった張作霖はこの地域の独立を志向していたのではなく、あくまで支那の政権であると自認していた。
- 支那中央政府の権力が脆弱であり日本人が保護されていない。
といった中華民国と満洲国の実情を述べた後、下記のように論じている。
- 柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
- 満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
と、中華民国側の主張を支持しながらも、
- 満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。
- 国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。
- 一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力や挑発(irritation)を行使している限り、平和は訪れない。
などの日本側への配慮も見られる。
しかし、国連によって日本の行為が世界的に検閲され、満州国は好ましくないという印象をはっきり示されたのは、日本にとって国際的な評価を落とすこととなった。
その後、1933年3月には、日本が国際連盟を脱退する。
その時の、日本を代表する松岡洋右(まつおかようすけ)の有名な演説がこちら:
堂々と、下手な発音でまくし立てている。
これが破滅への第一歩だとも知らずに。
これぞ「戦争を知らない子どもたち」の典型的な例だ。
ここで、「ABCD包囲網」という重要なキーワードについて触れなくてはならない。
これは、以下の内容を意味している。
まず、ABCDとは:
Aは、アメリカ(米国)のこと。
Bは、ブリテン(英国)のこと。
Cは、China(チャイナ)、すなわち中国のこと。
Dは、Dutch(ダッチ)、すなわちオランダのこと。
これは戦略物資について日本に対抗するための基本方針なのだ。
例の「真珠湾の真実」において記載されている「マッカラムの戦争挑発行動8項目」と密接に絡んでいる。
英語で、ABCD encirclementという。
1930年代後半から、海外に進出する日本に対抗して行われた石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による米英蘭中諸国による経済的な対日包囲網。
ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDライン(ABCD line)とも呼ばれる。
当時オランダの植民地だったインドネシアの石油を日本には売らないこと、中国にいる蒋介石を支援すること、英国の植民地だったシンガポールをしっかり確保することを含めて、日本を孤立化する動きに出ていたことが確認できる。
上記年表の中では、特に以下の事実が目を惹く。
1939年7月26日にアメリカが日米通商条約破棄を通告:
日本軍の中国における軍事行動の拡大に対して,アメリカが経済制裁を実施するために1894年と1911年以来の通商条約破棄を通告したもの。
翌1940年1月26日に失効した。
これにより鉄などの戦略物資の対日輸出が禁止され,石油の90%をアメリカに頼っていた日本は苦しみ,資源を求めて東南アジアへの侵略を強化することを強いられた。
本物の戦争を知らない日本は、こうやってどんどん追い詰められてゆくのだ。
そして、ハル・ノートの提示は、日本を確実に孤立させることになったのだ。
次回は、さらに英国と米国の陰謀を追求する。