「陽炎座」
1981年8月21日公開。
松田優作初の文芸作品。
順位および受賞歴:
- 第55回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第3位
- 第27回キネマ旬報賞
- 助演男優賞(中村嘉葎雄)、助演女優賞(加賀まりこ)
- 第5回日本アカデミー賞
- 最優秀助演男優賞(中村嘉葎雄)、優秀脚本賞(田中陽造)、優秀助演女優賞(加賀まりこ)、優秀撮影賞(永塚一栄)、優秀照明賞(大西美津男)
原作:泉鏡花
脚本:田中陽造
監督:鈴木清純
キャスト:
- 松崎春狐:松田優作
- 品子:大楠道代
- みお:加賀まりこ
- イネ:楠田枝里子
- 師匠:大友柳太朗
- 乞食:麿赤児
- 和田:原田芳雄
- 玉脇:中村嘉葎雄
- 執事:江角英
- 老婆:東恵美子
- 番頭:玉川伊佐男
- 院長:佐野浅夫
- 駅員:佐藤B作
- 狙撃手:トビー門口
- ごみを拾う男:榎木兵衛
あらすじ:
一九二六年。大正末年で昭和元年の東京。
新派の劇作家・松崎春狐(松田優作)は偶然、美しい謎の女、品子(大楠道代)と出会う。
三度重なった寄妙な出会いを、春孤はパトロンである玉脇(中村嘉葎雄)に打ち明けた。
ところが、広大な玉脇の邸宅の一室は、松碕が品子と会った部屋とソックリ。
品子は玉協の妻では……松崎は恐怖に震えた。
数日後、松崎は品子とソックリの振袖姿のイネ(楠田枝里子)と出会う。
イネは「玉脇の家内です」と言う。
しかし、驚いたことに、イネは、松崎と出会う直前に息を引きとったという。
松崎の下宿の女主人・みお(加賀まりこ)は、玉脇の過去について語った。
玉脇はドイツ留学中、イレーネと結ばれ、彼女は日本に来てイネになりきろうとしたことなど。
そして、イネは病気で入院、玉脇は品子を後添いにした。
そこへ、品子から松崎へ手紙が来た。
「金沢、夕月楼にてお待ち申し候。三度びお会いして、四度目の逢瀬は恋死なねばなりません……」
金沢に向う松崎は列車の中で玉脇に出会った。
彼は金沢へ亭主持ちの女と若い愛人の心中を見に行くと言う。
金沢では不思議なことが相次ぐ。
品子と死んだはずのイネが舟に乗っていたかと思うと、やっとめぐり会えた品子は、手紙を出した覚えはないと語る。
玉脇は松崎に心中をそそのかした。
この仕組まれた心中劇の主人公を松崎は演じることが出来ない。
心中から逃れた松崎は、アナーキストの和田(原田芳雄)と知り合う。
和田は松崎を秘密めいた人形の会に誘う。
人形を裏返し、空洞を覗くと、そこには男と女の情交の世界が広がっている。
松崎が最後の人形を覗くと、そこには人妻と若い愛人が背中合わせに座っている。
死後の世界だった。
松崎は衝撃を受けた。
金沢を逃げ出し、彷徨う松崎は子供芝居の小屋に辿り着いた。
舞台で玉脇、イネ、品子の縺れた糸がほどかれようとした刹那、愛憎の念が、一瞬にしてその小屋を崩壊させる。
松崎は、不安に狂ったように東京に帰ると、品子の手紙が待っていた。
「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頬みそめてき」
“夢が現実を変えたんだ”とつぶやく松崎の運命は奈落に落ちていくのだった。
コメント:
松田優作の初めての文学作品。
原作は、1913年(大正2年)に発表された泉鏡花の小説。
泉鏡花独特の、あの世とこの世を見せる不可思議な世界を描いている。
1981年の鈴木清順監督作品。
前年のヒット作『ツィゴイネルワイゼン』に続く、鈴木ワールド全開の幻想的な映画である。
脚本は『ツィゴイネルワイゼン』と同じく田中陽造。
夢や幻想というよりも、「異界」と呼ばれる領域に足を踏み入れる話なのだ。
時代設定が、1926年という、大正と昭和の境目になっている。
この作品が2つの世界の「境目」にあるエアスポットのようなミステリーゾーンを意識している証なのかもしれない。
松田優作が演じる主人公の松崎は、東京に暮らす新派の劇作家である。
或る日、橋で探し物をしているところへ、美しい女から声をかけられる。
女はどうやら松崎のパトロン玉脇(中村嘉葎雄)の前妻・品子(大楠道代)らしい。
これが縁になって松崎は品子と深い仲になる。
だが、そこに死病を患い入院中の玉脇の後妻・イネ(楠田枝里子)や、玉脇の妾のみお(加賀まりこ)、松崎と自分の女たちとの関係を邪推する玉脇が絡んでくる。
そして、現世か異界か、女にあやつられて松崎が迷路を彷徨うのだ。
主人公の松崎が彼のパトロン玉脇の先妻・品子に声をかけられるのは、橋の上。
品子は石段の途中に立っているため、石段の印象が強いのだが、松崎が立っているのは橋の上だ。
この作品では、このほかのシーンにも橋や川が繰り返し登場する。
橋は分かりやすい交通の要衝。
この映画の中で橋は、この世と異界を結ぶ場所という設定になっているようだ。
これは、この映画に限らず日本文化に根差した発想でもある。
能の世界で、シテが橋を渡って登場するのは、シテが人ならぬ存在だからなのだ。
弁慶が牛若丸に橋の上で出会うのも、鞍馬山の霊力を纏った牛若丸の、この世の者ならぬオーラを強調するためだ。
橋のほかにも、水に映った世界や神社のやしろなど、この世と異界の境目を思わせる要素がいくつも登場してくる。
松崎はそこから異界に迷い込み、生霊か死霊かも定かではない、さまよえる女の魂に出会うのだ。
鈴木清純という監督は、訳の分からない作品ばかり創る変人と思っている人が多いが、実は日本古来の舞台芸術などもわきまえた、大変な博学の人なので、馬鹿にしてはいけない。
もちろん鈴木清純は、通常の日本人の世界とは全く異なる世界を映画で表現しようという強い強い熱情があって、物語の設定や舞台の組み立て、衣装、キャスティングをしているので、とにかく「非日常」の世界でワープした気持ちになって、常識の概念を忘れ去って、考えずに、ただ感じ取る姿勢で観るべきであろう。
松崎が橋で出会った時、品子は「病院へ行く道にほおずきを売る老婆がいて怖い」と言う。
ほおずきを売る老婆が怖い・・・その言いぐさ。
少し不思議に感じながらも、一方で、細胞の奥深いところにジンと響く懐かしさを感じる。
ほおずきの季節はお盆と重なっていて、ほおずきと聞くだけでお盆を連想する。
老婆がほおずきを人間の魂だと言って売っているように、死者の魂が帰って来るお盆の祭壇に、ひとだまのような形のほおずきが、鮮やかな赤を添える日本の夏。
ほおずきと老婆と聞いて、背筋がすっと寒くなるのは、日本人ならではの夏の記憶なのだ。
そんな日本人の肌に吸い付くような感覚の怖さが散りばめられたこの作品は、何か自分の中に眠っている日本的な感覚が呼び覚まされるような感覚を覚える。
これは邦画にしかない醍醐味だ。
陽炎の立つ夏の白昼、松崎が迷い込んだのは、文字通りの人ならぬ者の世界であると同時に、男と女の迷路でもある。
道ならぬ恋は現世の迷路。
2つの意味合いの迷路が、境目を曖昧にしたままどこまでも広がっていくとりとめのなさも、この作品の魅力だ。
女は男の魂を取ろうとするけれど、自分の愛情のありかは明かさない。
実は品子の心は松崎にではなく、元の夫の玉脇にあるのかもしれない・・・本気になっていく松崎を翻弄するかのようでいて、火遊びを楽しむふうでもなく、どこか哀し気な品子。
まるでつかみどころがないのですが、それがまた女心そのもの・女の魅力そのもの。
松崎が迷い込んだのは、男女の情の迷路であると同時に、女の不可思議さという迷路にも思えてくる。
鈴木監督は品子役に大楠道代を起用したことに関して、冗談半分に「顔が長い」ことと「鼻の穴が綺麗」なことを理由に挙げているようだが、右頬のほくろもどことなく不幸げに見えて、品子役にピッタリだ。
墓場の花を集めて、死病を患った後妻のイネへの見舞いの花束にするという品子・・・イネが若死にしたのは、先妻品子の生霊の仕業でもあるかのような。
どこまでも憎しみ合っているようで、無情な男に嫁したお互いを憐れんでもいるようなところもある、品子とイネ。
そんな女同士の関係もこれまた不思議な関係だ。
玉脇の妾・みおは、加賀まりこというキャスティングからも察しがつく通り、ドライで、愛なぞ窮屈な鳥籠くらいにしか思っていない風情だ。
先妻と後妻、そして妾のそれぞれの立ち位置の違いも面白い。
それにしても、彼女らは実在したのか。
この物語全体が、もしかすると松崎自身の書いた芝居だったのかも(あるいは彼の白昼夢だったのかも)しれない。
どこまでも幻想に収束させていくあたりは、泉鏡花のテイストが生かされているところだ。
ただ、かといって泉鏡花の大正幻想ロマンには終わらせないのが鈴木清順である。
駅弁を食べる女が男の股間からマツタケを割り箸でつまみ出すといった泉鏡花もビックリな俗っぽい笑いも加えて、現世絵巻の色彩もたっぷり。
まあ、男女のことはまさに現世の迷い事だから、こういう味付けもいいんじゃないか。
松田優作というアクション・スターの起用は、監督としては冒険だったとか。
しかし、コミカルなシーンにも艶っぽいシーンにも違和感なく馴染んで、女という迷宮を彷徨う男・松崎にハマリ役だ。
この素晴らしい遺伝子が松田龍平・松田翔太2人の俳優に受け継がれ、今も芸能界に息づいていると思うと、そんなところでもまた不思議な感覚に捉われる。
若き日の松田優作は、松田龍平に面影が重なる。
本作は、松田優作がこれまでのフィルムノワールの世界から一変して、鈴木清純監督の泉鏡花の世界に挑戦した文芸作品だ。
暴力シーンは全くなく、ただただ不可思議な美人女性たちに幻惑されるという役柄である。
この後の松田優作も、ハードボイルド作品と並行して、『それから』、『嵐が丘』、『華の乱』といった文学作品に挑戦することになる。
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