「武士の一分」
2006年10月20日公開。
山田洋次監督の「時代劇三部作」の完結作。
ベルリン映画祭招待作品。
興行収入:41.1億円。
原作:藤沢周平「盲目剣谺返し」(もうもくけんこだまがえし)
脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎
監督:山田洋次
出演者:
木村拓哉、檀れい、笹野高史、岡本信人、左時枝、綾田俊樹、桃井かおり、緒形拳、赤塚真人、近藤公園、歌澤寅右衛門、大地康雄、小林稔侍、坂東三津五郎
あらすじ:
東北の小藩、海坂藩に仕える三十石の下級武士・三村新之丞(木村拓哉)は、城下の木部道場で剣術を極め藩校では秀才と言われながらも、その務めは藩主の毒見役。
不本意な仕事ではあったが、美しく気立てのいい妻の加世(檀れい)と慎ましくも幸せに暮らしていた。
ある日、新之丞は藩主の昼食に供されたつぶ貝の毒にあたって倒れる。
激しい痛みに意識を失い高熱にうなされ続け、からくも一命はとりとめたものの新之丞は失明してしまう。
一時は絶望し、死すら考える新之丞だが、加世の献身的な支えもあり、死ぬのを思いとどまる。
しかし、武士としての勤めを果たせなくなったため、今後の暮らし向きについては不安が募る一方だった。
親戚一同は会議を開き、加世は藩の有力者に家禄の半分でも据え置いてもらえるよう頼みに行けと命じられる。
そこで、加世とは嫁入り前から顔見知りだった上級武士の島田藤弥(坂東三津五郎)が、力になると加世に声をかける。
やがて城から、三村家の家名は存続し三十石の家禄もそのまま、という寛大な沙汰が下される。
暗闇の世界にも慣れてきたある日、新之丞は加世と島田の不貞を知る。
島田は家禄を口実にして加世の身体を弄び、その後も脅迫めいた言辞を使って肉体関係を強要していたのだ。
自らの不甲斐なさのために妻を辱められ、怒りに震える新之丞は、加世に離縁を言いわたす。
そして、盲目の身体に鞭打つかのように剣術の稽古を始める。
父の代から三村家に仕える徳平(笹野高史)と、剣の師匠・木部孫八郎(緒形拳)の協力を得て、新之丞の剣の勘は少しずつ戻ってくる。
そして、かつての同僚から、島田が家禄の口添えなどまったくしていなかったことを告げられ、怒りが頂点に達した新之丞は島田に果し合いを申し込む。
剣術の達人である島田を前に新之丞は苦戦するが、孫八郎から伝授された術を用いて島田を追い込み、彼の左腕を切り伏せる。
致命傷を与えた新之丞はその場を立ち去り、島田は後日切腹して果てる。
恨みを果たした新之丞だったが、離縁した加世の行方は分からず後悔の念を感じていた。
ある日の夜、徳平が連れてきた飯炊き女の飯を食べた新之丞は、「飯炊き女に会いたい」と言い出す。
その飯炊き女は加世であり、離縁された手前、身分の低い飯炊き女として新之丞の世話をしようと戻ってきていたのだ。
新之丞は加世と和解し、加世と抱き合うのだった。
コメント:
コメント:
「武士の一分」とは、侍が命をかけて守らなければならない名誉や面目の意味だ。
原作は藤沢周平の時代小説「盲目剣谺返し」
舞台は幕末時代の山形県庄内地方にある架空の海坂藩。
実在した庄内藩がモデル、現在の鶴岡市。
山田洋次監督の藤沢周平時代劇映画化三部作「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」に続いての最後を飾るヒューマンドラマ。
主演が木村拓哉で、幕末に生きる武士の名誉と夫婦のきずなを描いている。
妻役の檀れいやかたき役の坂東三津五郎ほか、緒形拳や桃井かおりなど、日本を代表とする実力派俳優が勢ぞろいする。
「~でがんす」は、山形県鶴岡市で使われている言葉。
ただ、現在はほとんど使われていないという。
この「~でがんす」は、昔のいわゆる武家言葉だったようだ。
キムタクの武士の姿に、東北の地小藩の下級武士になりきれていないようで、しっくりこないものを感じる。
そして「キムタク」の話す庄内弁は、どうも似合わない。
だが、物語が進行し、盲目になりやつれた姿での演技には、すごみがあり、次第に作品の世界へと、引き込まれていく。
キムタクは少年の頃、剣道をやっていたとのことで、よくわからないが太刀さばきは迫力があった。
キムタクの使用人役を演じた笹野高史がまた、名脇役だ。
キムタクと笹野の二人のかけ合いが絶妙で、実に良い味出てる。
ところでこの映画、全編が庄内弁だったのだが、その方言が理解できただろうか。
たとえば「みじょけね」何度かこの言葉が出てきた。
「かわいそう」という意味なのだか・・・はたしてお分かりになったろうか。
この映画のポイントとなるのは、ここ:
この檀れいの涙の熱演こそ、この映画のキモだ!
このシーンがあっての、その後の敵討ちの場面が生きてくるのだ。
ある日、主人公・新之丞(キムタク)に、身も心も揺るがす事変が起きる。
いつものように、日当たりの悪い納戸のそばの一室で、5人の毒見役が威儀を正して座り藩主の昼食に供される食事について、一口ずつの毒見をする。
新之丞は、赤つぶ貝のさしみの一切れを口にする。
そして猛毒にあたってしまうのだ。
激しい痛みに意識を失い、高熱にうなされ続けた新之丞は、加世と徳平の必死の看病で一命を取り留めるが、光を失い盲目となる。
妻の加世のお百度参りもむなしく、一生を暗闇の中で過ごさねばならないと知った新之丞は、もはや武士としての奉公もかなわず、衣食住のすべてに他人の手を借りなければ生きていけないことに絶望し、自ら命を絶とうとする。
そのとき加世は、こう言うのだ。
「みなしごだった私をあなたの両親が引き取ってくんなはったときから、あなたの嫁になることがただ一つの望み。
あなたのいなくなった暮らしなど考えられましね。
死ぬならどうぞ。
私もその刀で、すぐ後追って死にますさけ」
そういって泣きながら新之丞にすがりつき、死ぬのを思い留まらせるのだった。
木村拓哉が演じる、殿様の毒見役を任務とする下級武士・三村新之丞。
この男は、藩主の昼食に供されたつぶ貝の毒にあたって倒れ、それが原因で盲目になる。
そして、愛する妻を上役に弄ばれたことを知り、武士の一分のために立ち上がる。
「ぶしのいちぶん」と読む。いっぷんではない。いちぶでもない。
では、武士の一分とは何か。
「いちぶん」は、「譲ることの出来ない一身の面目、名誉」をいうようだ。
「メンツ(面子)」や「体面」とほぼ同義だが、もっと重々しく、古風な響きだ。
背景に「恥の文化」も感じられる。
映画「武士の一分」はまさにこれにあたる。
映画の宣伝ポスターやパンフレット類には「一分」のわきに「いちぶん」とルビがふってある。
今どきあまり耳にしない言葉なのだから止むを得まい。
藤沢周平の小説を元にした作品と聞いて、藤沢周平の本を探してみると、本屋にもなく、図書館でも「武士の一分」という題の本は見つからない。
「武士の一分」の原作の題名は『隠し剣 秋風抄』(文春文庫)だった。
しかも、映画の題材になったのは、その中の「盲目剣谺(こだま)返し」という短編である。
「隠し剣 秋風抄」にしても「盲目剣谺返し」にしても、小説の題名をそのまま映画のタイトルにしたのでは『武士の一分』ほど話題にならなかったろう。
原作には、このキーワードはたった1回しか出てこないのだ。
夫の将来を案じる妻につけ込み籠絡した剣士との果たし合いの場面。
盲目の主人公が相手の動きを知る術は気配だけだったが、突然その気配が消えた。
「この勝負、負けたか」との思いが一瞬頭をかすめる。
が、その後すぐに主人公が平静さを取り戻す内面の様子を、作家・藤沢周平は、次のように淡々とした筆致で書いている。
「だが、狼狽(ろうばい)はすぐに静まった。勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけて来るだろう。生死は問わず、その時が勝負だった」
「武士の一分が立てばそれでよい」。
映画の題名は、このさりげないくだりから取ったのである。
山田洋次監督の慧眼というほかない。
この主人公の、盲人であるが故の表情や立ち居振る舞いを抑え気味の演技で見せている。
さらに、上役を倒そうと決意して、緒形拳扮する剣の師匠に指南されながら懸命に剣術の勘を取り戻して行く、剣士としての鍛錬のシーンは観る者をくぎ付けにする。
そして最後に、坂東三津五郎が演じる上役との一騎打ちの場面での死に物狂いの形相と、相手を倒すまでの盲目の剣士ならでは独特の殺陣は、これまで見たことも無いキムタクの新境地だった。
主人公を献身的に尽くす妻を演じる檀れいが良い。
時代劇が似合う女優だ。
笑えるのは、桃井かおりの出番。
キムタクの親戚の叔母さんを演じている。
桃井の登場シーンはそんなに多くないが、そのコミカルな演技に劇場内ドッカンドッカン笑いが起きていたという。
完璧な方言まわし、大阪のおばちゃん東北バージョンってな感じの勢い。
その存在感はさすがだ。これ観られただけで、行ってよかったと思える。
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