「復讐するは我にあり」
1979年4月21日公開。
実話に基づく連続殺人犯を描く異色作。
「人間は復讐をしてはならない」との聖書の言葉を引用したタイトルの意味とは?
受賞歴:
1979年 第4回 報知映画賞 助演男優賞 1979年 第4回 報知映画賞 助演女優賞 1979年 第22回 ブルーリボン賞 作品賞 1980年 第3回 日本アカデミー賞 作品賞 |
原作:佐木隆三
脚本:馬場当、池端俊策
監督:今村昌平
出演者:
緒形拳、三國連太郎、ミヤコ蝶々、倍賞美津子、小川真由美、清川虹子、殿山泰司、垂水悟郎、絵沢萌子、白川和子、フランキー堺、辻萬長、北村和夫、火野正平、根岸とし江、佐木隆三、河原崎長一郎、菅井きん、加藤嘉
あらすじ:
九州の日豊本線築橋駅近くで専売公社のタバコ集金に回っていた柴田種次郎、馬場大八の惨殺死体が発見され、現金四十一万円余が奪われていた。
かつてタバコ配給に従事した運転手榎津厳(緒形拳)が容疑者として浮かんだ。
榎津は駅裏のバー「麻里」のママ千代子(絵沢萌子)を強姦、アパートに連れこんで関係を強要し続けるなど、捜査員の聞き込んだ評判も悪い。
二ヵ月前までは、ヌードダンサー上りで「金比羅食堂」をやっていた吉里幸子(白川和子)と同棲、母子家庭をガタガタにもした。
数日後、宇高連絡船甲板に幸子と両親宛ての榎津の遺書と、一足のクツが見つかり、投身自殺の形跡があった。
偽装と疑った警官が別府市・鉄論で旅館を営む榎津の実家を訪れると、老父・鎮雄(三國連太郎)、病身の母・かよ(ミヤコ蝶々)、妻・加津子(倍賞美津子)は泣きながら捜査の協力を誓う。
一家は熱心なカトリック信者だが、戦争中、厳は網元をしていた父が軍人に殴られ、無理矢理舟を軍に供出させられた屈辱の現場を目撃して、神と父への信仰を失い、預けられた神学校で盗みを働き、少年刑務所へ送られた。
その後も犯罪と服役を繰り返し、その間に加津子と結婚した。
結婚後、加津子も入信したが、榎津に愛想をつかし離婚、その後、尊敬する義父の懇望に従い再入籍。
榎津は出所する度に父と加津子との仲を疑い、父に斧を振り上げるなど、一家の地獄は続いた。
浜松に現われた榎津は貸席「あさの」に腰をすえ、大学教授と称して静岡大などに出没、警察をあざ笑うような行為を重ねる。
千葉に飛んだ榎津は裁判所、弁護士会館を舞台に老婆から息子の保釈金をだまし取り、知り合った河島老弁護士(加藤嘉)を殺して金品を奪った。
この頃になると警察史上、最大といわれる捜査網が張り張り巡らされていた。
浜松に戻った榎津の素姓に「あさの」の女主人ハル(小川真由美)やその母、ひさ乃(清川虹子)も気づき始めた。
しかし、榎津に抱かれるハルは「あんたの子を生みたい!」とその関係に溺れ、元殺人犯で競艇狂いのひさ乃も榎津を逃そうとする。
だが、そんな母娘を榎津は絞め殺し、「あさの」の家財を売り飛ばし、電話まで入質して逃亡資金を貯え、七十八日後、九州で捕まるまで詐欺と女関係を繰り返した。
絞首台に上がる直前、最後の面会に来た父に榎津は「おやじ……加津子を抱いてやれ……。人殺しをするならあんたを殺すべきだった」と毒づく。
残された一家にも重い葛藤があった。
死の床にある母は「私も女じゃけえ、お父さんを加津子に渡しとうなか」と言い続けた。
父も地獄のような家を守ってきた嫁が心底かわいく、信仰とのはざまに悩みぬく。
そんな義父を加津子は無性に好きだった。
榎津の処刑後、別府湾を望む丘に、骨壷から、榎津の骨片を空に向って投げる、鎮雄と加津子の姿があった。
コメント:
実際にあった事件を佐木隆三が小説化し、それを演出したのが、あの今村昌平監督だ。
九州、浜松、東京で五人を殺し、詐欺と女性関係を繰り返した主人公の生いたちから死刑執行までを辿る。
インパクトのあるタイトルに、エネルギッシュな殺人鬼の半生を緒形拳がぶっちぎりの演技で見せる。
緒形拳の悪人映画でダントツの作品になっている。
その悪人に徹し切った、凄絶なまでの演技力は映画史に残る。
三國連太郎が扮する殺人犯の父と、倍賞美津子が扮する妻との近親相姦の疑いも、表面上はまじめなキリスト教徒を装いながらも、心の奥底では闇を抱えている雰囲気を醸し出すことに成功しており、こちらも見事である。
本心をひたすら隠す天才詐欺師であり、色情狂でもある殺人鬼・榎津巌というモンスターの人物像を描くにあたって、周囲の人物の人間模様は重要で、その脇役達が適材適所で素晴らしい働きをしている。
この映画の主人公・巌と、彼の父親をめぐるエピソードがこちら:
映画の冒頭でのシーン。
時は戦時中。
長崎の五島で漁師をしていた榎津一家。
軍は敬虔なクリスチャンである集落からのみ、船をむしり取るように徴用しようというのだ。
不公平を訴え軍と交渉していた鎮雄を遠目に見ていた巌は、棒切れを拾い上げると子供だてらに軍人に殴りかかった。
これは、父が巌の子ども時代を刑事に説明するために回想したシーンだ。
『本当に殺したい相手を殺していない』巌が、唯一、本当に殴りたい相手を殴ったできごとだった。
「殴る行為はいけないが、お前の気持ちはわかるし、お前をあんな気持ちにさせてすまなかった・・・」
もし、あの時、巌少年にそう父親が話していたら、巌の人生は違っただろうか?
映画の終盤でのシーン:
巌・緒形拳と父・三國連太郎との間で、こんなやり取りを交わす。
巌
「あんたは俺を許さんか知らんが、俺もあんたを許さん。どうせ殺すならあんたを殺しゃあよかった。」
父
「お前に俺は殺せない。お前は親殺しのできる男じゃない。」
巌
「それほどの男じゃぁないってことかっ!!」
父
「恨みも無い人しか殺せん人間なんだ お前は!!」
巌
「ちきしょう!!あんたを殺したい!」
この最後のセリフこそが、榎津巌が殺人鬼となった理由なのかもしれない。
殺人鬼の言い訳のようにも見えるが、キリスト教によって正しい道を進むことができなかった自分、そして、敬虔なキリスト教徒ぶっているが、実は肉欲にさいなまれている父親へのどうしようもない憎しみ。
そんな人生に決別したかったが故に、連続殺人を犯したのかも知れない。
父は倍賞美津子演じる嫁の加津子が、自分に思いを寄せていることを知っている。
嫁の美貌におののき、嫁に手を出さぬよう冷たい井戸水を浴びて耐えている。
神様に背かぬよう、お天道様をまっすぐに拝めるよう、必死に踏みとどまる。
巌の子ども時代、父はキリスト教徒という自負がなかったのか、役人に抵抗しなかった。
そんなだらしのない父を巌は許せなかったのだ。
数十年後に、巌が実家を離れていた頃にも、父親は真摯なキリスト教徒を装いながら、嫁との近親相姦直前の精神状態になった。
それを知っている巌には、父のそんな在り様が許せなかったのかもしれない。
この映画のタイトル「復讐するは我にあり」は、聖書から来ている。
"愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して「主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」とあり"(ロマ書十二・十九)
神が、復讐をしたいと苦しむ人間に対して、「人間は復讐をしてはならない。悪人に報復を与えるのは神である」と諭す教え。
原作「復讐するは我にあり」の扉のウラに、上記のような新約聖書の語句が引用されている。
「俺は神様はいらん。俺は罪もなか人たちば殺した。だから殺される。そいでよか。あとはなんにもなかよ」
映画の終盤、拘置所に面会に来た父親に向かって、榎津巌はそう嘯く。
映画の中の榎津は、その信仰心をとうに捨て去っているようで、そんな神の御業と縁を切った人物を描いた映画のタイトルが、聖書の字句そのままの意味ととるには虚しさがあり、このタイトルの"我"とは、やはり榎津自身を指しているのだろう。
しかし、改めて原作を読んでみて、榎津が最期まで信仰を捨てていなかったことに気づく。
原作においては字句どおり、裁きは神に任せるという解釈の方が、むしろ相応しいと思う。
原作者の佐木隆三は、前出の今村昌平との対談で、このタイトルが、調査取材を進めるうちに、彼の中で否応なしに芽生えた、犯人に対する一種の共感から生まれたものであることを述べている。
「聖書から題名を借りることにしたのは、私は小説の主人公を、当然ながら肯定はしないが、否定もできない。ただ、こういう男がいたことを調査しましたよ、という気持ちを表すのに、"復讐するは我にあり"というのは適切な言葉ではないか、ということなんです」
この映画における三國連太郎は、いつにもまして、この殺人鬼の父親という役柄になり切っている。
息子への憎悪を表現するために、巌に扮した緒形拳との会話のシーンでは、憎々しげに緒形拳の顔に向かって、ペッと唾を吐きかける。
本人のコメントによれば、本気で思いっきり唾を貯めて、相手の顔をめがけて吐きかけたようだ。
三國が嫁の倍賞美津子と二人で風呂に入って欲情を表すシーンは、この映画のテーマを示唆する最高の場面だ。
緒形拳の濡れ場とは違った意味で話題になったシーンである。
あるサイトでは、この二人の濡れ場の画像が大量に掲載されている。
本ブログではもっともおとなしい部分だけご紹介しておく。
この映画は、レンタルも購入も動画配信も可能: