松方弘樹の映画 「修羅の群れ」 稲川会総裁・稲川角二をモデルとした松方弘樹主演の任侠映画! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「修羅の群れ」

 

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「修羅の群れ」 プレビュー

 

1984年11月17日公開。

稲川会総裁・稲川角二をモデルとした任侠映画。

配給収入: 6億5千万円。

 

 

原作:大下英治

脚本:村尾昭

監督:山下耕作

出演者:

松方弘樹、北大路欣也、酒井和歌子、菅原文太、北島三郎、天知茂、丹波哲郎、若山富三郎、鶴田浩二、清水健太郎、張本勲、小林繁

 

 

あらすじ:

昭和8年の冬。

雪の舞う横浜の浅間町。

柔道の吉岡道場を、横浜四親分の一人、加東伝三郎(丹波哲郎)が訪ねてきた。

そこで柔道を習う稲原龍二(松方弘樹)は吉岡の勧めもあって、加東の若い衆になることに決めた。

インテリでありながら博奕で身を滅ぼした父の仇をとるには、この道で男をあげるしかないと思ったのだ。

龍二はよく働き、そんな彼に加東一家の兄貴分・横山新二郎(鶴田浩二)が仁侠道のイロハを教えた。

ある日、売り出し中の龍二は海岸でチンピラにからまれている娘を助ける。

娘の名は中田雪子(酒井和歌子)、後の稲原夫人である。

日本が太平洋戦争に突入した昭和15年、二人は結婚した。

19年、勤労奉仕で御殿場の山北へ出かけた龍二は、伝三郎の兄弟分、横浜笹岡一家の桐原銀一郎と事を起こしてしまう。

しかも、横浜四天王の一人、鶴岡政次郎(若山富三郎)の目前でだ。

しかし、鶴岡は、弱い人間をかばって喧嘩した龍二を見込んで、身柄をあずかるといってくれた。

戦後の混乱期の湯河原。

賭場で無法をはたらいた海軍復員兵の長谷部と森谷(清水健太郎)が龍二の貫禄に圧倒され、若い衆になった。

更に、モロッコの辰(北島三郎)、井沢輝一(菅原文太)というグレン隊あがりの暴れ者たちも次々と舎弟分となった。

そして昭和24年春、熱海の山崎一家石井光之助親分の跡目を継ぎ、稲原組がうぶ声をあげた。

僅か10年の間に稲原組は熱海を制覇するや、小田原、横浜、静岡へと進攻し、組員も増えた。

龍二の人種差別しない心に感動した韓国人の山村修道(張本勲)、田上圭(小林繁)や、五、六百人の若い衆をかかえる石河(北大路欣也)も、稲原に惚れて身内となった。

組織が大きくなればなるほど上下の意志の疎通は欠けるようになり、井沢の独断専行が目にあまるようになった。

横山は、彼を破門せよと迫り、龍二は断腸の思いでこれに従った。

さらに不幸は襲った。

龍二が親と仰いだ横山が死んだのだ。

龍二は、横山のために建てた墓前で、更なる前進を誓うのだった。

 

 

コメント:

 

山口組と対等になるほどの広域ヤクザに成長した稲川会の総裁・稲川角二をモデルとしたやくざの実録出世映画。

松方弘樹の傑作と言っていい。

これまで、長いこと脇役に徹していた松方弘樹。

存在感はあったものの、代表作と呼べるものがなかった。
脇役に鶴田浩二を据えての物語。
幾分ヤクザを美化しすぎているきらいもあるが。

Vシネマの元となった作品。



本作が制作された1984年当時は、東映オールスターでは駒が足りず、他社は無論、野球界、歌謡界までも動員して任侠映画界再興を狙うも時代は変わり、凋落傾向は止める事がもはや不可能な時代だった。
映画の舞台となっているのは暴対法もまだ無い時代で、興行界に深く根を張っていた組織との関わりは互いに持ちつ待たれるの関係だったことが、人物の交流がそれを裏付けている。
今となっては企画そのものが考えられないヤクザ礼賛ともいえる作品が一時代を築いたのである。

 

 

主演の松方弘樹は当時42歳。

東映生え抜きのスターながら、長年冷や飯を食わされ、岡田社長から「松方、役者は四十からだぞ、辛抱せえよ」と言われ続け、三十代で大作の主役を張るようになっても「まだ足が着いてない」気持ちだったという松方が、「やっと独り立ちできた」と生涯の代表作と誇っていたのが本作だという。

 

松方に絡む役で野球解説者の張本勲と小林繁が特別出演し話題を呼んだ。

酒井和歌子は本作が東映初出演。

 

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