三船敏郎の映画 黒澤明監督作品以外で、こんなに多くの作品を世に出した稀有の映画人・世界のミフネ! | 人生・嵐も晴れもあり!

人生・嵐も晴れもあり!

人生はドラマ!
映画、音楽、文学、歴史、毎日の暮らしなどさまざまな分野についての情報やコメントをアップしています。

三船敏郎を特集します。

 

 

 

三船敏郎といえば、黒澤明監督の映画では、最も多くの三船主演作があります。

 

しかし、三船敏郎の生涯を振りかえってみると、出演した作品総数は、なんと153作品といわれています。

その中にはたくさんの名作があります。

 

まずは、彼の出自と経歴をたどります。

 

三船 敏郎

(みふね としろう)

(1920年4月1日 - 1997年12月24日)(享年77歳)

日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。

本名は同じ。

 

 

 

 

生い立ち:

1920年(大正9年)4月1日、中国山東省の青島で、父・徳造と母・センの長男として生まれる。

徳造は、秋田県由利郡川内村の漢方医の次男。満州へ渡って貿易商や写真業をしていたが、敏郎が5歳の時に大連に移り住んだ。

大連でショッピングモール「連鎖商店街」の2階で「スター写真館」を開業。写真館経営のかたわら、従軍カメラマンもしていた。

母は新潟県の旗本だった家柄の生まれ。

敏郎は、1938年(昭和13年)に大連中学校を卒業。

父が病気で倒れたため写真屋を手伝っていた。

1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就いた。これが父母との永遠の別れになった。

中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟し、父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。

写真の経験・知識があるということから満洲国の陸軍に配属され、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。

その後、1941年(昭和16年)に内地に移り、滋賀県八日市の八日市飛行場に写真工手として配属され、1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。

1940年(昭和15年)、先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われていた。

 

 

 

映画界での経歴:

1947年(昭和22年)に東宝ニューフェイス第1期生として入社し『銀嶺の果て』で映画デビューした。

翌年の『醉いどれ天使』から黒澤明とコンビを組んで『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』『用心棒』など計15本に主演した。

ほかにも、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』、熊井啓監督の『黒部の太陽』や、米映画『グラン・プリ』、『太平洋の地獄』、米ドラマ『将軍 SHOGUN』、仏映画『レッド・サン』といった海外映画15作品に出演した。

 

 

 

 

黒澤が世界的な監督になるとともに、三船も国際的なスターとなり、日本では「世界のミフネ」、英語圏では、「The Wolf」や「The Shogun」などと呼ばれ、世界中の映画関係者に影響を与えた。

1966年(昭和41年)、東京都世田谷区成城と調布市入間町にまたがる敷地に、時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。五大映画会社並みの規模の三船プロダクションを設立した。

1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションの合同制作の映画『黒部の太陽』を主演。

1969年、監督に稲垣浩を迎えて、中村錦之助、石原裕次郎らとともに『風林火山』を作った。

 

 

 

この2作品はそれぞれ、その年の日本映画の興行成績1位となる。

『桃太郎侍(1967年、日本テレビ系、主演:四代目尾上菊之助)』を皮切りに、西部劇を時代劇風に翻案し、黒澤作品での浪人「三十郎」を想起させる『荒野の素浪人(1972年、NET系)』や、NHK大河ドラマに比肩する規模の大作『大忠臣蔵(1971年、NET系)』、萬屋錦之介主演『破れ傘刀舟悪人狩り(1974年、NET系)』などのテレビドラマも制作し、時代劇の歴史に一石を投じた。

 

受賞歴:

栄典及び称号に、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章・ロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位。1961年と1965年にヴェネツィア国際映画祭 男優賞を受賞した。

 

今後、三船敏郎の代表作品(黒澤明関連以外)をレビューして行きます。

 

お楽しみに。