映画監督「石井輝男」 大ヒット作「網走番外地」を創り出した天才! | 人生・嵐も晴れもあり!

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日本のやくざ映画最大のヒットシリーズといえば、「網走番外地」です!


 

「網走番外地」」予告編をどうぞ:



網走番外地」 予告編






この大作を作り続けた天才的な映画監督こそ、石井輝男です。


彼の歴史をたどります。







石井 輝男(いしい てるお、1924年1月1日 - 2005年8月12日) 


日本の映画監督・脚本家。


本名は北川 輝男(きたがわ てるお)。


出生地は、東京都千代田区麹町。


生家は浅草の綿問屋。



1939年(昭和14年)、早稲田実業高校を中退しました。


中退後、遠戚の紹介で大阪にあった記録映画のプロダクションに入りました。


同プロダクションに出入りしていた人から、東宝への入社を薦められる事となり、1946年に東宝に撮影助手として入社しました。



東宝時代は撮影助手に従事していましたが、1947年に、東宝争議にともなう新東宝への移籍と同時に助監督になりました。


そして、何人もの大監督の下で映画製作の基本を学ぶ機会に恵まれたのです。


たとえば、


8億円の配収をあげる空前の大ヒットした『明治天皇と日露大戦争』で、新東宝の負債を一気に返済させて救世主となり、「渡辺天皇」の異名をとった渡辺邦男監督。


さらに、林芙美子原作の『浮雲』や『放浪記』をはじめとして、川端康成原作の『舞姫』、『山の音』や、室生犀星原作の『あにいもうと』といった純文学作品から、石坂洋次郎原作の『まごころ』といった大衆作品まで文芸映画を中心に、人間の細やかな情感を描ききった、成瀬巳喜男監督。


また、田中絹代監督作品の助監督もしたといいます。



娯楽映画を量産していた渡辺監督からは、早撮りを習ったようです。


また、成瀬監督には作品の企画面で大きな影響を受けて、成瀬調の作品の企画を会社に出していましたが全て却下されたということです。


成瀬監督の助監督時代に、成瀬作品の産みの親である脚本家の水木洋子の作品の仕事を渇望していましたが、実現しなかったようです。



その後、石井は、新東宝で『女体桟橋』などの佳作を発表しましたが、後に、東映に移り、いよいよ、高倉健主演の『網走番外地シリーズ』の監督をはじめるのです。


1965年4月より封切られた『網走番外地シリーズ』は、連続ヒットとなり、石井の監督としての地位は一気に上昇しました。


 

東映のヒットメーカーの第一人者として、石井はその後も、1968年(昭和43年)より東映ポルノと呼ばれる一連の作品を発表しました。

 

また、松竹や日活でも作品を発表している。1970年代までにポルノとアクション映画を量産しました。

 

ただ、石井輝男はエロスだけの監督ではなく、前衛舞踏の土方巽を登場させるなど、表現規制を打ち破ること、芸術志向と娯楽作品が同居した監督だったといわれています。

 

さらに、1990年代はつげ義春・江戸川乱歩の世界へ傾倒しました。

 

東映プロデューサーの天尾完次は、「石井は同じ東宝出身の黒澤明の対極に位置する」と評していたようです。



監督昇進後も、高い技術、モダニズムを評価され、ヒットに恵まれながらも、完成度の高い映画作家とは逆の方向へ走り続け、映画賞などとはまったく無縁のアンチ巨匠として孤高の地位を築き上げました。



インタビューでも「タッチの統一とか整合性は嫌い」と語っており、破綻なくウェルメイドに仕上げる技術は十分に持ち合わせながらも、あえて作品をアナーキーな映画にせずにいられない性格を吐露していました。






石井輝男の監督としての作品群をリストアップします:





新東宝時代

1957年(昭和32年)、『リングの王者 栄光の世界』で監督デビュー。


1957年から60年にかけて『肉体女優殺し』、『女王蜂の怒り』などの傑作を発表。


 

1957年に公開された「肉体女優殺し 五人の犯罪者」







中田勇と三輪彰の合作シナリオを「鋼鉄の巨人 地球滅亡寸前」の石井輝男が監督、「美男剣競録」の鈴木博が撮影したサスペンス・ドラマ。

主演は宇津井健。共演者は、三ツ矢歌子、北令子、三原葉子、天知茂、御木本伸介など。


あらすじ:


ストリップ劇場フランス座の人気スター浜野千鳥は、芝居に使う小道具のピストルがいつか本物とすりかえられていたため、台の上で殺害された。

うったのは舞相手役のベテイ桃園で、彼女は千鳥の夫のドラム叩き徳島と関係があったことから、捜査本部はこの徳島を逮捕した。

だが毎朝新聞記者、西村は他に犯人ありとにらみ、徳島の妹水町かほるに近づいて、事件の糸口をつかもうとする。


1958年に公開された「女王蜂の怒り」






国際都市を背景に、女顔役・新興ボス・海上保安官などがからむアクションもの。


全体的にテンポが良く、アクションもスピーディー。特に港からキャバレーに移るシーンやクライマックスの日本刀での乱闘シーンはかなり見もの。


主役の宇津井健と共に戦う女組長・久保菜緒子が色っぽい。


「白線秘密地帯」のコンビ内田弘三・石井輝男が脚本・監督をそれぞれ担当した。


撮影は「ヌードモデル殺人事件」の吉田重業、音楽は「汚れた肉体聖女」の渡辺宙明。


キャストは、宇津井健・中山昭二・高島忠夫・久保菜穂子・高倉みゆき・三原葉子等。


あらすじ:


神戸の波止場を真中に海堂組と竜神組はことごとに対立していた。

竜神組の副長剛田は海堂組の女親分ゆりの体とシマを狙っていた。

そんな時、ゆりの乾分宏の愛人京子が仲居をしている料亭「千虎」では、三軒一家の襲名式が行われ、関東一円の大親分が全部集ったが、海堂ゆりの許へはチラシがこなかった。

激した広は千虎になぐり込んだ。・・・・




初期から表現規制に抵抗する作風が見られたといいます。


『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)』シリーズを監督として、1作目から6作目までを担当。


1960年(昭和35年)1月13日、『黒線地帯』公開。


1960年(昭和35年)4月29日、『黄線地帯』公開。





東映時代

1961年(昭和36年)、東映と専属契約を結ぶ。


6月23日公開の『花と嵐とギャング』が東映(ニュー東映)での監督第1作。


1965年(昭和40年)4月18日、『網走番外地』(高倉健主演)公開。


連続してNo.1ヒットとなり、高倉とのコンビでシリーズ計10作を世に送り出す。

 



高倉健が歌う「網走番外地」です:


お聞きください:


網走番外地」








石井監督作品となった「網走番外地」シリーズ10作品は、以下の通りです。

 






網走番外地


続 網走番外地 (1965年度興行収入ベスト10 : 6位)


網走番外地 望郷篇(1965年度興行収入ベスト10 : 4位)

 

ご覧ください:


網走番外地」 望郷篇


網走番外地 北海篇 (1965年度興行収入ベスト10 : 2位)

 

ご覧ください:


網走番外地」 北海篇



網走番外地 荒野の対決 (1966年度興行収入ベスト10 : 9位)


網走番外地 南国の対決 (1966年度興行収入ベスト10 : 3位)


網走番外地 大雪原の対決 (1966年度興行収入ベスト10 : 1位)

 


ご覧ください:


網走番外地」 大雪原の対決


網走番外地 決斗零下30度 (1967)


 

網走番外地 悪への挑戦 (1967)


網走番外地 吹雪の斗争 (1967)


ご覧ください:


網走番外地 吹雪の斗争










第一作の「網走番外地」では、大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇、列車による手錠切断から大団円まで主演の高倉健が熱演、スターダムに駆け上がった。

 







この頃の監督石井輝男・高倉コンビの映画は世の中から浮き上がってしまったチンピラや殺し屋が体当たりで敵にぶつかって命を散らしていく内容が多かった。


 「東京ギャング対香港ギャング」「ならず者」「いれずみ突撃隊」で高倉の骨太なヒーロー像は確立していった。


 監督石井輝男は高倉のよさを生かしながら泥臭くならない二枚目半の魅力を引き出していった。






なお、このシリーズは、その後も他の監督によって、8作品が作られています。




1968年(昭和43年)5月1日、『徳川女系図』公開。


9月28日公開の『徳川女刑罰史』は低予算で同年邦画配収の9位。


1969年(昭和44年)10月31日、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』公開。


1974年(昭和49年)8月10日、『直撃! 地獄拳』(千葉真一主演)公開。


1974年度に4億1700万円を興行収入を上げ、同年度の日本映画興行収入ランキング第5位。


1975年(昭和50年)4月5日、『大脱獄』公開。高倉健との最後のコンビ作となった。


1977年(昭和52年)7月17日、『惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団』(明比正行と共同演出)公開。


1979年(昭和54年)10月6日、『暴力戦士』公開。



この後、休養に入る。



復活後、


1991年(平成3年)6月14日、『ザ・ヒットマン 血はバラの匂い』(東映Vシネマ)をリリース。


1993年(平成5年)7月24日、『ゲンセンカン主人』公開。


1995年(平成7年)5月29日、『無頼平野』公開。



これ以降、自ら立ち上げたプロダクションで16ミリによる『ねじ式』、『地獄』を撮る。


2001年(平成13年)、デジタルビデオによる『盲獣vs一寸法師』を完成させる。


6月24日「第23回ぴあフィルムフェスティバル」で上映。


本作が最後の監督作品となった。



2004年(平成16年)3月13日、上映方式の問題などで難航していた『盲獣vs一寸法師』一般公開が実現。








2005年(平成17年)8月12日、肺癌により死去。享年81歳でした。



謹んでご冥福をお祈りします。