世の中にはしばし矛盾を内包しつつ共存していることがあって、現実はそれを認めながら時に都合よく切り離されて議論されることがあるが、明治主将の発言はそれを改めて考えさせられる契機となった。

先日のニュースによると、明治ラグビー部は、新キャプテンに武井選手が選ばれたという。監督の指名ではなく、全四年生の話し合いで決められたという。これは帝京方式とも言えるものだろう。
依然として帝京の影響力を感じるが、今回はそのことに関してはどうでもよく(帝京だって他校の良いところは積極的に真似してるから)、むしろ明治キャプテンのコメントに明治の変化があったことを取り上げたい。

発言のソースは、東京中日スポーツの「[大学ラグビー]王者メイジ、連覇へ始動! 武井新主将けん引」というタイトルの記事で、筆者は大友信彦さん。
以下、コメントを引用すると


『特に今の4年生は、(昨年12月の)早明戦に負けてからすごくまとまって、いいチームになりました』


とある。

こうしたコメントは、よくある発言だし、取り立て特別な内容でもないのだが、明治に関しては躍進した理由を端的に示したものだったのではないかと思う。
というのも、今までの明治であれば秋冬に負けたあとは音を立てて崩壊するように下降線を辿り、そしておきまりのキーワードが選手たちに降り注いだ。
「人材の墓場」
「春番長」
「失速の明治」

「うあーぁ、やっぱり今年もダメだわ!」という声が内外から漏れ伝えられたものだが、かつてと違ったのは、次への姿勢。
反省して「この負けを糧に次に活かせばいいじゃん」と、いい意味での開き直りとポジティブさがあった。
これは過去になかった大きな変化の姿勢である。
それが選手たちだけでなく、ファンたちの間でも広がったことが大きかった。
言い換えると、明治は「素直に反省できるチーム」に変わったということである。

このへんで反発を受けるかもしれないが、明治はかつて、というよりも現在進行形で、宗教的な組織であると断言できる。
明治に長く君臨した北島忠治という監督が掲げる「前へ」という言葉が明治では部是を超越して絶対だからだ。
こういうと明治ファンから必ず批判されたものだが、あえて書かせてもらう。
ちなみに宗教的というと批判の意味合いをもつが、宗教自体を否定するつもりは一切ない。

宗教と宗教ではないものの違いは、どこにあるだろうか。人よって考えは違うだろうけど、個人的には「疑問を挟める」かどうかだと思う。
科学であれば、疑問を呈してもそれは許される。だが宗教はどうか?
疑問を挟むことは許されない。宗教は、はじめから信じることが求められる。主体的に考えることを求められていない。思考の従属こそ宗教の本質だ。
信じろ。とにかく疑問を挟むな! これが絶対正しいんだから。そうだろ?
そうしたトートロジー的論理こそ宗教の象徴的姿勢だ。だから、自分みたいなヨソ者が、「つーか、前ってなに?」と素朴に疑問を挟むと一部のファンからボコボコにされた。

さて。その組織の中で疑問を発することを封じ込められるとどうなるだろうか?

反省しなくなる。

自分たちが間違っていたのではないか?と思うことは疑問を挟むことと同義語だからだ。反省とは、自分たちの過ちを認めることである。
なので俺たちは絶対正しいとされる文化の中で反省は禁物である。俺たちは間違ってないから反省しない!
となればどうなるか? 猪突猛進で玉砕のみである。ハンドル操作の修正は許されない。カーブだろうが壁があろうが死ぬ覚悟で突っ込め!

だが、2018年の明治は違った。謙虚に反省し、修正し、チーム一丸となって優勝を勝ち取った。まさに教科書のように優勝にふさわしいチームだった。
だが、それでも依然として宗教的文化は失われていない。この矛盾。この矛盾の共存こそ、今回の明治の摩訶不思議だった。