先日、バスの運転手さんの口から耳を疑うような言葉を聞きました。
一瞬、空耳かもしれないと思ったけど、耳から脳にダイレクトに届いたその四文字は、確かに空耳ではありませんでした。
空耳かもしれないと思った時は細心の注意が必要だということは、福岡ソフトバンクホースの松田宣浩選手が、ホームランを打つ度によく「熱男(あつお)~」と叫んでいたのが聞き取れず、父と不毛な討論をしてしまったことに学びました。
僕は松田選手がなんて言っているのか本当に聞き取れなくて、「おっぱ~い!」とかもっとずっと凄いド下ネタを言っていると思っていたんです。
恐らく野球選手という仕事は、普通の人が日々体験する数十倍以上のストレスに晒される仕事です。ですから、その抑圧がホームランという形で一気に解放されてしまった為、バルブが弾けて凄いことを叫んでしまうという…。
そして、それはファンのみならずメディアも勿論気づいてはいたが、松田選手のこれまでの功績とカリスマ性を称え、暗黙の了解的な感じで、皆聞かなかったことにして、支えていたのだと思っていたんです。
まだまだ社会には、僕が知らないだけでずっと温かいものがあったんだなと感動していたので、それが「熱男」と言っていたと知って…
ホッとした気持ちと少しのガッカリで複雑な思いをしました。
少し前置きがながくなりましたがそんなことがあったので空耳だけは注意を払っていたのですが、
やっぱりその運転手さん、
Suicaやパスモで乗客が支払う度に言っているんですよね
そうだよ~
って。
松田選手とは対照的な、
低く心のこもっていない機械的なリズムで。
そうだよ~、そうだよ~、そうだよ~って…。
Suicaをタッチする度に。
この、「そうだよ」
という言葉はサービス業の側面もある運転手という職業では絶対にナシな言葉だと思うんですよ。
しかも、この状況で使う「そうだよ」
は、客よりもちょっと高い位置に自分を置いてそこから承認しているというニュアンスでした。
でも、不思議とイラッとしないんですよね。
これが「よくできました」だとしたらなんだかもっと遥か高みから言われてる気がして確実にイラッとすると思うんですけど、
これはストレートなの?ボールなの?どっちなの?というギリギリの線を投げてくるので、多くの人が見送ってしまうんだと思います。
その辺は本当によく練られたピッチングだと思います。
そんなことを考えながらバスを降りた後、バス停から程近い総武線の、ある駅に向かって歩いていたのですが…
ふと、
なんであの運転手さんは「そうだよ」と言わなくてはいけなかったのか
と考えてみたんです。
というのは、あの「そうだよ」は絶対ストレス解消が根底にあると思ったからなんです。
以前、ニュースで観たのですが、バスが遅れると運転手さんが物凄いクレームの嵐にあうらしいのです。
確かに、雨の日はよく遅れるし、当たり前に来るはずのバスが遅れるとイライラしますよね。
でも、運転手さんの気持ちになると、自分のせいで遅れたり、自分がミスを犯したわけじゃないのに怒られるのはかなりやるせないですよね。
僕ら現代人は待つことに対する免疫が非常に少ないと思います。
考えてみれば一日を通して“待った”と思うことがほとんどありません。
交通機関は都内にいる限り調べれば、5分待たずに乗り継ぎできるし、スマホの通信速度も僕が初めてスマホを手にしたころに比べて格段と速くなったし…
待つことに対して僕らはあまりにも前傾姿勢過ぎて、待つというより迎えに行ってる感じですよね。
待つということは尊い行為なんです。
待つということは、人を信じることが前提にあって、そして、待つのですが、でも、待つことを意識して集中してしまうと、もう待てないので待つことは待たないということをしながら、絶えず待ったという意識を放棄し続けないといけないのです。
こんなにも複雑な行為って滅多になくないですか?待つことって凄くないですか?
人生百年時代とか言われて昔の人に比べて寿命がこんなにも伸びているのに…
どうしてこんなにも待てないのでしょうか。
一体何に追われて生きているというのでしょうか。
社会を信じすぎて人を信じられない世の中になってきているのかもしれません。
後、200数十円で遠くまで僕らを運んでくれているのに、その200数十円に約束された未来まで含めようとするのは、考えてみたら安すぎませんか?
…とか
運転手さんの気持ちになって考えてみたんですけど…
あの運転手さんの「そうだよ~」のリズムを、
もし、チャージ残高が足りなくて止めてしまったら、運転手さんは快く待ってくれるのでしょうか、また、その時運転手さんは「そうだよ~」の代わりになんて言うのでしょうか、
「違うよ~」とでも言うのでしょうか。
お待たせしました。
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願いします。