するり、と手が伸びてきてわたしの、ふゆ、が取り上げられてしまう。鼻が強調されたそのぬいぐるみのまさにその部分へ唇を押し付けて、彼がどこか艶っぽく微笑む。

「なんて、嘘。――おいおい、冗談だよ、なんでそんな顔してんだよ、まさか図星か?」

変な沈黙の後で慌ててわたしは言う、自惚れないでよ、と怒ったような笑い声を立てる。それはない、彼を今わたしが好きだとしても、それと恋人との別れは少しも関係がないのだ、それだけは確信して言える、絶対に違う、それらは別々の、遠く離れた惑星同士の話くらい関係がない。

「自惚れないで」

「はい、すんません」

恋人だったら、と思って、わたしはもうあの人が自分の恋人ではなかったことを思い出す。それでも面倒なので、恋人、のままで思い出すことにした。あの人ならもっと丁寧な言葉遣いでわたしに言うだろう。自惚れないで、と放たれたわたしの言葉に、恋人だったらきっと真っ直ぐに目を見て真面目な顔で、ごめんね、と言うはずだ。ごめんね、そうだね、自惚れていたかもしれない、と。

「ああ、」

あの真面目さがわたし達の間を少しずつ侵蝕してゆき、そして腐蝕させてしまったのではないかと勝手に思ってみた、それは多分間違いなのだろうけどどこかしらほんの少しだけは、正しいのかもしれなくてわたしは哀しくなる。

その真面目さを愛していた日々が、確かにあったはずなのに。

「なにが『ああ』?」

「うん、ちょっと納得したことがあって」

「なに?」

「ううん、いいの」

手を伸ばす、わたしは、ふゆ、を取り返す。そんなに力の入っていなかった彼の手から、犬は静かに大人しく奪還された。

「いいの、」

もう一度繰り返すと彼は腑に落ちない顔をした。わたしは彼が先ほど唇を押し付けた犬の鼻へ、真似て自分も唇を近づける。

「間接、キス」

「うわ、なんかやらしいな」

同感だったのでわたしは笑った。どうして実際に唇を重ねるキスよりも、間接的なくちづけの方が背徳めいた淫靡さを想像させるのだろう、どこかいけない行為のような、どこか責められたいと思っているような。

「わたし、昨日恋人と別れたの」

「うん、聞いた」

「でもそれとは全然関係なくて、わたしはあなたが好きよ」

さらりと言ったので途中まで相手もさらりとした顔をしていたのだけれど、わたしの言葉が完全に耳へ収まった後でいきなり混乱したらしい。ええ、と音程の外れた声を出してこちらをまっすぐに見たまま固まってしまった。

「えっと、」

「恋人と別れたのは全然あなたとは関係のないことだから、気にしないで」

「気にしないでって、言われても、」

「ふゆ、ありがと」

「ああ、うん」

男の人は慌てると子供に戻ってしまう。焦ると、ただの名もない、男の子、になってしまう。そんな彼を笑って、わたしは自分の中にゆっくりと、恋人と別れてしまったことを実感しはじめた。あの手はもう握れない、あの唇が知らない誰かのものになってしまっても、わたしはもう文句を言うことができない、あの瞳が誰を見ても、あの耳が誰の声だけに傾けられても、あの人が誰を抱き締めても、もうわたしには関係がない。人と別れるということはそういうことだ、相手が自分の中では死んでしまうのと、きっと同じなのだ。

満月を一日過ぎただけの夜なのに、空気はコーヒーゼリーのようだった。湿度が高いのか、微妙に不透明でよそよそしい空気。

わたしは恋人を失ったのだ、そういう関係から解放されたと同時に生活のごく当たり前に手に入っていたもの――たとえば金曜の夜に行くスプモーニが美味しいお店、その隣に必ずいてくれたはずの恋人――も消滅してしまった。

「別に、わたしのことを好きになってくれなくても良いよ」

「なんだその自惚れは」

彼が今度は笑う番だった、わたしもつられて唇の端を持ち上げる。

「失恋記念と犬獲得記念で飲みに行くか」

「わたしは振られた訳じゃないし、犬だって欲しくて堪らなくて貰った訳じゃないわ」

「あんまし可愛くないことを言う女は駄目です」

可愛くないことを言う女は嫌われるよ、だとか、男受け悪いよ、ではなく、駄目です、などと言われてしまったのできょとんとする。

「ま、口実があればなんだっていいんだよ、飲みに行くか、なんならこいつの名づけ記念日としてでもいいぞ」

こいつ、と彼は、ふゆ、を指差して言った。告白記念日でもいい、と小さな声で付け足されたけれど、わたしは聞えなかった振りをする。

恋人はこの夜にひとりで眠っているのだろうか、と考えると胸が痛んだ。自分でしてしまった仕打ちだというのに。恋人の携帯電話に、まだわたしのメモリは残されているだろうか、胸の内にわたしがまだ住んでいるだろうか、プレゼントしたネクタイは、お揃いで買ったカップは、わたしが置いてきたワイングラスは。こうやって恋人のことを想うのは今夜で終わりにしようと、わたしは無茶なことを考えた。それは絶対に無理なのだと分かっていたけれど、決心が揺らがないように、わたしはただただ、ふゆ、を強く抱き締めた、そんなわたしをどことなしに楽しそうに彼が眺めて、さて飲みに行きましょうか、と作ったようなやわらかい声を出した。