「ナギ、」
石の城は暗く、光が射さないようにできています。中に閉じ込めた天使が、なんらかの間違いで大きな力を手に入れ、クリスマスの雪になる事を全力で拒んだりしないように。
「ナギ、ナギ、お話をして」
雨をさっさと作り終えると、わたしは逃げ去るうさぎのスピードで蒼い翼の天使がいるガラスの檻まで走ってゆきます。彼を監視する事はわたしの役目なので、彼を逃がさない限り誰もわたしに文句を言うものはありません。神様でさえ。
「ホーリーか、また騒々しい奴だなお前は」
彼は人間だった頃の記憶を持つ、珍しい天使なのです。失敗作だというけれど、わたしには彼の方がずっと素敵な天使に見える。青味がかった真っ黒の髪は短く、尖った顎先と端正な顔立ち。あの灰色の布、彼の目を隠してしまっている小さな切れ端を取り去ってあげたいのだけれど、わたしにはできません。それは、神様に禁じられているからです。もしもこの世界の美しさを知ってしまったら、彼は心安らかに雪になれるだろうか、と言うのです。
彼に天使としての名前はありません。神様がくださらなかったから。だから、わたしは彼を人間だった頃の名前で呼ぶのです。ナギ、と。
「何の話がして欲しいんだ」
「ナギの名前のお話をして頂戴な」
「またそれか」
「またでもなんでも、何度でもそのお話が好きよ」
彼には見えないけれど、わたしはにっこりと笑ってみせます。するとどうでしょう、空気で伝わるのでしょうか彼も、ふんわりと唇を持ち上げて笑顔を作ってくれるのです。
「仕方ないな、ホーリーは頭悪いから同じ話を何度したって覚えられないんだもんな」
「うふふ、なんて失礼な」
「笑うところじゃなくて憤慨するところだよ、ホーリー」
ナギの声は甘くなくてすっきりと重みがあって、夜更けの月、飛行船のようにぽっかり浮かぶあの安心さ加減に似ています。だからわたしは、ナギの声でして貰うお話が、大好きなのです、きっと。
「ナギっていうのは、」
凪って書くのさ、と彼は人差し指をピンと持ち上げて、何もない空間にその字をさらりと書いてみせてくれます。
「夏の朝や夕に、地上と海上が同じ温度になる時があって。そうすると風が止むんだ。とても息苦しい暑さになるんだけれど、奇妙に静かで。それが凪、それが俺の名前」
「ナギは、夏に生まれたのね、夏の、朝に生まれたの? 夕に生まれたの?」
「朝の、どうしようもなく寂しい静かな時間に生まれたらしいよ」
「ひどく暑い空気の中で?」
「そう、母さんが言ってた、暑くて耐え難くて、この子は凪なんだって思ったって」
母さん。
その言葉はわたし達に馴染みはあっても手に入らないものなので、少しだけ羨ましく思います。ナギは母さんの記憶を持っているのです。
「母さんのお話もして」
「母さんの? あんまり覚えてないよ、ああ、でも俺が小さい頃、転んだりケンカしたりで泣いていると必ずリンゴのホットケーキを作ってくれたな。男の子が泣いてもいいのは家の中だけなのよ、外ではどんなに大きな傷を負ったって平気な顔をしなさいって。そういう人だった」
「ナギに、強い人になって欲しかったのかしら」
「本当に強い人は、どこでもちゃんと本気の心で泣ける人の事だよ。俺は強くなれないと分かっていたから、せめて形だけでもって思ったんだろうな」
ホーリー、と彼は静かにわたしの名前を呼びます。
なあに、とわたしも穏やかな声で聞き返します。
「今日分の仕事はきちんと終わらせたのか?」
「ちゃんと終わらせているわ、いつだってちゃんと終わらせてからここへ来るじゃないの」
「そうだけれど。ホーリーはどこか抜けているところがあるから、俺は心配だ」
「もう薔薇の蕾も数えたわ、雨も作り終えたし、後はあなたを、」
見張るだけなのよ、と、わたしは言えませんでした。見張るだなんて。そんな、まるでナギが悪い事をした天使のようではありませんか。
「……後は、あなたの、お話をたっぷり聞くだけだわ、ナギ」
彼は優しく微笑みます。きっと、わたしの言えなかった言葉を、ナギはちゃんと知っているのでしょう。それでもそれを、彼は口にしません。仕方がないな、甘えん坊のホーリーちゃんは、と言うだけなのです。
「母さんの話、もうひとつあった。台風の夜に、俺はあの叩き付ける雨や風が恐くて、どうしてもひとりで寝る事ができなかったんだ。だけど恐いなんて恰好悪くて言えなくて、ベッドの中で震えていると、母さんが来て。言うんだ、ナギ、母さん台風が恐くて眠れないから一緒に寝てくれないかしらって」
なんかすべてを見透かされているようで悔しくて、でも俺は精一杯虚勢を張って仕方がないなって言うんだ。ナギは穏やかな声でそう話してくれます。
「……ナギ、触ってもいい?」
そんな事を聞いているうちに、わたしは堪らない気持ちになってくるのです。そして、ガラスの檻の隙間に手を入れます。ナギ、こっちへ来てよ、と。彼はわたしの声の方へそろそろと近づいて来て、ここら辺かな、と首を傾げます。
「届く?」
「大丈夫」
ホーリー、お前の手は冷たいな、と、ナギの頬に触れたわたしの手をさらに自分の手で包み込んで彼は笑うのです。
「なんだよ、またお前も人恋しくなったのか?」
もう人じゃないんだよ、わたし達は光でしかない天使なんだよ、とわたしは言えないのです。どうしても。彼も、自分が失敗作であるとはいえ天使である事を忘れてはいないと思うのですが、お前も、と言われると、わたしには。何も、言えなくなってしまうのです。
「それともまたなんかやらかして神様ってのに怒られたのか?」
「仕事はちゃんとこなしているもの、寂しくだってないもの、ただちょっと、」
あなたに触りたくなったのよ。
その気持ちがどこから来るのか、わたしには分かりません。
この気持ちに名前があるのかさえも。不思議な気持ちなのです、胸を甘くゆるゆると締め付けるような、痛いのに幸せな、ときめくのに悲しい、この気持ちは。
「ナギは、あたたかいわ……」
彼の頬はすべらかで、優しい触りがします。
「ごめんなさい、あなたの目隠しを取ってあげられなくて」
「なんでお前が謝るんだよ、お前がつけた訳じゃないんだから、謝られても俺だって困る」
「困る?」
「そうだ、だから意味もなく謝るな」
そんな事は馬鹿な女のする事だぞ、と言われてわたしは笑ってしまいます。
「ナギ、」
「なんだ」
「もう行かないと」
わたしがナギの前から居なくなる時、彼がふと悲しそうな表情をするのは気のせいでしょうか。
「ああ、ちゃんと仕事するんだぞ」
「ナギに言われなくてもちゃんとやっているわ。ねぇ、またお話を聞かせて頂戴ね」
「仕方ないな、またしてやるか」
「うん」
彼の頬から離れたわたしの手は、この世で一番悲しいもののような気がしてしまいます。それは、ただの思い込みでしかないのでしょうか。ナギが普通の天使だったら、一緒に仕事をしたりできて、こんな檻越しに話さなくても済んだのかと考える事もありますが、わたしにはどうしても蒼い翼や黒い髪以外の外見を持つ彼を、想像したりする事はできないのでした。