韓国映画の出来の良さ | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

20年前に公開された韓国映画。

 

昨日、プライムビデオで観なおした。

 

よくできている、名作だと思う。

 

実際に起こった連続レイプ殺人事件を基にしている。

 

なかなか容疑者をあげられない刑事たちは、偏見と差別で容疑者をでっち上げ、汚い手で自白を得る。

 

取り調べ中の暴力や脅し、捏造。

 

しかし物的証拠がないので決定打にならない。

 

自白主義の田舎の刑事と、物的証拠主義のソウルから派遣された刑事が対立する。

 

警察の「いやらしさ」が描き出され、警察って内実はこんなものだと思い知らされる。

 

ソウルから派遣された刑事は冷静に物的証拠を探すことに奔走し、ついに有力な容疑者に辿り着く。

 

そして現行犯逮捕のために容疑者を尾行するが、不慮の事態で尾行できなくなり、その間に彼が親しくしていた中学生が襲われ、残忍な殺され方をする。

 

彼が追い詰めた容疑者がやった可能性があるにも関わらず、捕まえられない。

 

そのジレンマから彼は怒りに震え、容疑者に発砲する。

 

容疑者であっても決定的な証拠がない人間に発砲するのはもちろん違法だが、次々に女たちが殺されていく現実に怒りが頂点に達し、抑え切れない感情は理解できなくもない。

 

刑事を正当化できないが、刑事が抱える矛盾を考えさせられる。

 

功を焦って犯人をあげようというのも大いにあるが、この映画では刑事がどうのというより、ただただレイプと殺人への怒りがストレートに湧き上がってくる。

 

刑事はその怒りを代行する存在として描かれる。

 

解決できないフラストレーションが殺人、レイプへの憎悪をさらに増幅させる。

 

謎が解かれないまま終わるが、そこがある意味、秀逸である。

 

事件は未解決なまま20年がたち、自白主義の田舎の刑事は転職して営業マンになり、たまたま最初の現場を通りかかり、遺体が置かれていた溝をのぞき込んでいると通りがかりの少女がなにをしているかのと尋ねるので「昔、ここであることがあった」と告げると、そういえば同じようなことを言ってのぞき込んでいた男が最近、いたと教えてくれる。

 

それはおそらく犯人だろうと思わせ、映画は終わる。

 

暇があるとプライムビデオを観ているが、韓国映画は見ごたえがある。

 

日本映画のようにアニメ原作の映画化(すべて悪いとはいわないが)や昔の映画のリメイク、くだらない純愛、二匹目のどじょうと制作の動機が軽薄で映画を「作る」姿勢に雲泥の差がある。

 

テレビがもはや飽きられた時代、映画作りにもっと熱意があってもいいと思う。