「真田広之の息子、超大物司会者に対面」と書かれたネット記事が目に入ってきて、「え、誰なん、超大物司会者」って思い、まんまと罠にはまって読んでしまった。
黒柳徹子のことだった。
へぇ、黒柳徹子って「超」がつく「大物」司会者なんや。
自分にはもはや舌が回らない老害のような、可哀そうな婆にしかみえない。
舌がぺらぺらまわるうちに引退しておけば、名声を残せたのに、自ら名を汚した道化。
それにしても最近、「大物」という言葉が芸能界のニュースで氾濫している。
自分が歳をとったせいか、ただ長く続けているだけのタレント、役者が「大物」になり、あたかも「才能に恵まれている」ような過大評価がされている。
鶴瓶やさんまなどはもはや「大物」「大御所」だが、十年一日のごとくワンパターンであるだけで全然、笑えない。
ただ長くテレビに出続けているばかりで、なんでいつまでもそうしていられるのかさっぱりわからず、そのせいでもっと面白い若い芸人の邪魔にしかなっていない。
彼らがさっさと退場すればもっと若い、才能ある芸人が世に出られただろうし視聴者も楽しめた。
自分はいまの映画やテレビを観る限り、「大物」の役者や芸人がいるとは思えない。
「いい役者」はすこしいるが、「いい映画」に出会えないのでなかなか才能を活かせない。
いい映画、テレビ番組が役者、芸人を育む。
「いい芸人」もいるだろうが、テレビの下種なバレエテイ番組などに出ればすぐに才能をダメにしてしまう。
バレエテイ番組は儲かるだろうが、テレビの軽薄なだけの演出家の要求にこたえると自滅する。
と言って寄席しか出ないと食えないのでテレビに出て、芸人として堕落し、自滅するしかないのがなんとも哀しい。
自分は桂枝雀という大阪の落語家が天才だったといまも信じている。
鶴瓶やさんまなど枝雀の足元にも及ばない無能者で、もし彼らが枝雀を「理解」できれば自らを恥じるしかない。
ただ「大物」という言葉には「怪しげさ」もある。
「大物政治家」などというと隠然たる権力を発揮する悪人をイメージする。
好ましくない言葉である。
才能ある、有名な作家などを「大物作家」「大物小説家」とは言わない。
せいぜい「著名な作家」である。
もちろん「大物教師」とか「大物販売員」「大物タクシードライバー」などとも言わない。
才能と大物とは違うらしい。
「大物」という言葉には揶揄もある。
名前は売れたが、才能はついてこないという意味にもとれる。
バカにしている。
あえて「大物」という言葉を使うライターはそれをわかって使っていそうだ。
それなら黒柳徹子は「超大物司会者」に違いない。