最近、時間があったのでプライムビデオで映画を何本か観た。
「仁義なき戦い」シリーズ、「砂の器」「燃えよ剣」など。
「仁義なき戦い」シリーズは懐かしい。
最初に作品が1973年制作だから、大学は卒業していた。
始めて映画館で観たとき、びっくりした。
それまでヤクザ映画といえば高倉健、鶴田浩二の任侠映画で、ヤクザが美化され過ぎていた。
悪と戦うヤクザみたいな矛盾。
「仁義なき戦い」は実録、つまり実在するヤクザの手記に基づくリアルなヤクザを描き、醜い欲、裏切り、打算が前面に押し出され、裸のヤクザが描かれた。
映画は「いい出来」ではもちろんない、所詮ヤクザ映画だし。
でもいままでにない描き方をした映画として注目を浴びた。
1965年に「荒野の用心棒」というマカロニウエスタンが公開された。
イタリアが制作した西部劇。
これもそれまでの美化された西部劇を壊し、初めて観たときびっくりした。
アメリカ人が観たら怒り出すような醜いウエスタン。
マカロニウエスタンが登場した1960年代後半から、「仁義なき戦い」が登場した1970年代前半は学生運動が盛んだった時代と重なっている。
その時代の学生運動はそれまでの学生運動と違って、いわば「理想」のない学生運動で、こういう「社会」を作りたいという目的があるのではなく、ただ現状を「壊したい」という抵抗運動に過ぎない。
理想や正義のために「闘っている」のではなく、自身の足元の矛盾に「抗う」ものであった。
学生運動が、というよりそんな「時代」だった。
理想、正義を否定した時代と言っても過言ではない。
いまの70歳代がその世代だが、当人たちもそんな時代があったことなどわすれているし、自分たちの世代を特別視しない。
理想と正義を否定したなどと言い張る爺婆はもはやいない。
「仁義なき戦い」シリーズをプライムビデオで観て、「懐かしいな」と思うのが関の山だ。
もう半世紀も経つと、はたしてそんな時代があったのか、自分も「あった」と言い切る自信が失せつつある。
「こんな時代があった」と切り取ることに意味があるとも思えない。
それでも「仁義なき戦い」という映画はその時代だからこそ作られた気がする。
映画は密かに時代を投影していると思える。