なぜ親は子供の昼食を作らないのか?という疑問 | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日の「かんさい熱視線」(関西エリアだけ放送)

 

以下のようなテーマ。

 

小学生は1食250円ほど。安くておいしい給食がいま揺れている。食材費や光熱費などの高騰で「量を減らす」、「肉の代わりに安価な野菜で代用する」などの対応を取らざるを得ない事態に陥っているのだ。上昇するコストを誰が負担し、かつ栄養バランスを保つか。そのジレンマに自治体や保護者、給食自業者が頭を悩ませている。将来にわたって子どもの食をどう守っていくのか。関西各地の給食を取り巻く実態を追った。

 

「上昇するコストを誰が負担し」とあるが、自分は保護者(親など)が負担するしかないと思う。

 

そんなことを言ってはいけないのだろうか?

 

もちろん給食費も大きな経済的負担になる家庭は救済、支援すべきで、場合によっては給食費は免除すべきだ。

 

しかし大半の親はそうではないだろう。

 

仮に月、1000円増額してもそんなに大きな負担になるだろうか?

 

と言うか我が子がひもじい思いをするぐらいなら月1000円はやむなしではないのか?

 

もし自治体が負担となれば、それは税金からになり、何度もいうが子供のいない家庭に対して不公平だ。


年寄りも不公平に優遇されている部分もある。


それでも自己負担は増えるばかりだ。


どうして子供だけ、と思う。


自己負担が増えないのか?


ましてや子供のいない若い人などは取られるばかりだ。

 

給食費はいまでも税金が援助している。

 

これ以上、税金から賄うのは「おかしい」。

 

給食業者の中にはあくどいのもいるかもしれないが、彼らを責めるのは基本、筋違いだろう。

 

もともと戦後の貧しい時代に「せめて」子供に「だけ」は食わせようとということで給食制度は始まったと思う。

 

いまもそういう状態の貧しい家庭、ひもじい子供がいて、そこに手を差し伸べるのは当然だが、もはや給食制度自体が時代とマッチしているのかちゃんと問うべきだ。

 

というか金の問題ではない。

 

親は金を使って、子供にもっといいものを食わせるべきだろう、できるのなら。

 

家畜の餌ではないのだ。

 

ただ食わせばいい、学校でのことは知らないというのは親の無責任、無愛情だと思える。

 

給食に限らず、親は学校に子供を預けて子育てを「放棄」しているように見えてしまう。

 

なぜ、これだけ問題化している給食に親は向き合わないのか?

 

学校に行って、我が子が食べている給食を「味わう」親はいないのだろうか?

 

給食の無償化などはとんでもない話で、政治家が当選したいばかりに掲げている戯言で、そんなことをすれば親も含めて増税になり、結果、自分で首を絞めているに等しい。

 

どうして親たちは我が子の昼食を自分でつくらないのかがわからない。

 

いくら仕事を抱えていても弁当をつくればいいではないかと思う。

 

それが親の「愛情」ではないのか?

 

親と子供の「接点」ではないのか?

 

他人が作った給食を食べさされる子供はどう思うのか?

 

それを「普通」と思うことがおかしくないか。

 

こんな風に言ったり、考えると子育ての大変さを知らないバカと思われるに違いない。

 

でも給食どころか、学校の在り方、教育の在り方など根底を問い直さないと親と子供の関係の矛盾は矛盾のままだ。