切れの良さ、息つく間もない展開にはやはり感心する。
第3話は昭和と令和のテレビ番組の比較。
昭和にはいまは考えられない「エロい」番組が深夜に流れていたし、ドリフターズの番組はゴールデンタイムなのにセクハラ丸出しだった。
セクハラが笑いにつながるという悪趣味。
セクハラがどうのというより、それがどうおかしいのか、笑えるのか、自分にはわからなかった。
というか20代、30代にはあまりテレビは観ていない。
それでも視聴率が獲れるということで悪趣味は続き、そしていつの間にかエロ番組もドリフも消えた。
どうしてだか覚えがないが、なんか規制みたいなものができたのだろう。
昨日、山本耕史演じる令和のプロデューサーが、あらゆる言葉がセクハラに聞こえ、狂った様をみせていたが、令和の番組は規制がんじがらめと言う気がする。
いわば昭和の番組の反動、「裏返し」。
エロもセクハラもご法度で、だから無難に「旅と食べ物」の紹介しかしない、いまの番組は。
害がないというより過剰で、要は「臭い物に蓋をする」である。
しかし臭い物に蓋をしても「臭い物」は消えない。
隠れているだけでなくなってはいない。
エロもグロもナンセンスも。
それらは人間の本質的な持ち物で、消えない。
それらをなくすことはできない。
性というか、助平さはいくら隠しても奥に見えている。
セクハラという言葉はそれでも「隠せ」という命令であり、矛盾している。
主人公の阿部サダヲが「(女を)自分の娘だと思え」、すると女を性的に見ないという訴えは実はおかしい。
エディプスコンプレックスではないが、性は親子にも存在するし、自分の娘をそういう風に見ないのは「タブー」だからに過ぎない。
タブーはただ隠すだけだ。
やはり性的なものは消せない。
阿部サダヲの「父親」はその矛盾の滑稽を表わしているのかもしれない。
昭和のエロ番組のMC(秋山竜次)が実は紳士だったというもの面白いし、令和からきたフェミニスト社会学者(吉田羊)の元夫が昭和の中学教師(阿部サダヲ)の教え子だったという設定も時間がよじれ、これからの展開に興味津々。
ちなみに第一話を観ていない、つれあいは「ついてこれず」、それでも断片的な可笑しさに引き込まれている。