「しあわせを運べるように」はおかしい | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日のブログで付け足して書いた「しあわせ運べるように」の続き。

 

おとといのNHKニュースで、阪神淡路大震災から29年というので、この歌の作曲・作詞をした人物が登場した。

 

神戸の大学で音楽を教えているらしい。

 

以前からこの歌の歌詞に違和感があり、嫌いだった。

 

亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きていこう

 

昨日も書いたが、これは「意味」として間違っている。

 

亡くなった人の「ぶん」を誰かが代わりに生きていくことなどできない。

 

そもそも亡くなった人の「ぶん」とはなにか?

 

亡くなった人はそこで命が尽きたので、もう「ぶん」はない、残念ながら。

 

そして、人は自分の「ぶん」を生きるだけだ。

 

無念にも早く亡くなった人を追悼する気持ちはわかる。

 

それは「仕方ない」というのではない。

 

無念は無念に違いない。

 

しかしその無念を晴らすことはできない。

 

晴らす必要はない。

 

むしろ震災などの自然の脅威は人に無念をもたらす。

 

それを「知る」ことが大事だと思える。

 

自然災害に限らず、交通事故のように突然、死が襲ってくる場合がある。

 

けれどそれが人の死である。

 

自分の身内が無念にも亡くなってその「ぶん」まで生きていこう、という言い方はおかしいだろう。

 

人の死の真実に反している。

 

この歌は歌いやすいので小中学校で歌われているようだ。

 

いわば教育の教材になっている。

 

なら、よけいに意味を間違って教えてはいけない。

 

身内を失くす、あるいは家などを失う不幸があって乗り越えていこうというのは遺族や被災者にとって簡単な問題ではないと思える。

 

何年たっても癒えない人もいるだろう。

 

以前通りに暮らしている風に見えても深層で引っ掛かっている人もいるだろう。

 

そんな人に対して亡くなった人の「ぶん」まで生きろ、前を向けと言うのは残酷ですらある。

 

今回の能登半島地震でも、いま「前を向ける」被災者などいるだろうか?

 

この歌を聞いて癒される人はいるだろうか?

 

むしろ反感を感じる、自分は。

 

はっきり言ってこの歌詞は被災者を愚弄している。

 

「亡くなった方々」の「方々」という言葉遣いもおかしい、もし使うのなら「亡くなった人たち」でいい。

 

いくらよく歌われる歌でもおかしいものはおかしい。