ビートルズを神格化してはいけない | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日放送された「映像の世紀 ビートルズの革命 完全版」。

 

結論から言うとビートルズを「歴史」にしようとしてスキャンダラスに作り過ぎだ。

 

特に、同時代を生きたいま60代半ばから70代の世代には「革命」という表現が理解しがたい。

 

そんな大したものではない。

 

革命というのは「いままで」があってそれが「変わる」ことだが、自分たちには特に「いままで」、つまり既存の音楽という意識がない。

 

歌謡曲、小学校唱歌、クラッシック、ジャズ、音楽に特に興味のない子供には、それらの音楽はただあっただけで「既存」という言い方はあたらない。

 

1960年代半ばに出現したビートルズは、リアルに目の前に存在しただけで、古いも新しいもない。

 

自分にすれば、中学生の時に彼らが現れ、「いいな、これ」と感じただけで「なにかが変わった」という「革命」というものではなかった。

 

番組は「歴史」にしようとすることで彼らの出現を大げさに捉える。

 

ジミーページやレディーガガまで登場し、彼らなしにロックはないという言い方をするが、それはミュージシャンだから言えることでただのファンには言い過ぎだろうと思える。

 

自分が中学3年生の時に映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」が上映され、観に行った祇園会館(いまは吉本新喜劇の劇場になっている)で映画上映中に女性たちが舞台にかけ上がり、狂わんばかりに「ポール!」とか叫んでいた記憶はあり、人気のすごさは尋常ではなかった。

 

しかし自分が高校時代になるとやや下火になり、大学に入る前から次のロック世代、レッドツェッペリンやピンクフロイド、あるいはサンタナやシカゴと言ったグループが「ハードロック」と呼ばれて、交代していく。

 

昨日の番組でもそうだが、彼らが「公民権運動」や「フェミニズム」「反戦」あるいは「若者の解放」の象徴にように言われるとそれは違うと思う。

 

一役は買ったかもしれないが、いやらしい言い方をすればそういうパフォーマンスをしたに過ぎないと言える。

 

彼らは「新しい」と言われて登場した。

 

常に新しいことをしなければならず、結果、やや政治的な行動、発言をしたうさん臭さがあった。

 

自分はいまも変わらずビートルズファンではある。

 

しかし、いやだからこそ彼らを神話化できない。

 

いいも悪いも。

 

ただの人間だから疑わしいものも多く、彼らが路線の違いで早く解散したのは悪くなかったと思う。

 

彼らは時代をリードしたかもしれないが時代そのものではない。

 

長髪にしろ、彼らはただの「とっかかり」であり、戦後の鬱屈した気分が終わり、時代が変わろうとした雰囲気の中でそうなっただけで、それは革命というよりブームに過ぎない。

 

革命でなかった証拠に、なによりビートルズ世代と言われるいまの60~70代はなにも「変えなかった」。

 

むさ苦しい爺婆になったのをみればわかる。

 

ビートルズはただのミュージシャンであり、時代の申し子にし過ぎてはいけない。

 

そして1960年代を過大評価してはいけない。

 

彼らと60年代の評価を誤らせる。