ピアノとアスリート
先日、知人のピアノリサイタルを聴きに東京オペラシティに出かけた。
その知人は教育大学で音楽を教えている教授である。若い頃から欧州に留学して音楽教育を学び、卒業後は日本の大学で音楽教育を教え続けてきた。その間には、日本の高名な詩人とコラボして書籍を出すなど、多彩な活動も行ってきた人である。ピアノリサイタルも、そんな多彩な活動の一つと言えるのだろう。
彼は30歳代だった1990年代後半から、おおむね2年に1回くらいのペースでリサイタルを行ってきた。そんな彼も、いまや還暦を迎えている。
20年くらい前に、彼と話していた際に、音楽教育の専門家である彼が、なぜピアノリサイタルを続けているのかを尋ねたことがある。彼の答えはシンプルだった。
「アスリートであり続けたい」
ピアノ奏者というものは、たしかにアスリートなのだなと、僕もそのとき納得した記憶がある。
「アスリート」の定義を考えることは、案外と豊かなものに触れることなのかもしれない。もちろん一般的には、アスリートとはスポーツ選手を意味することが多い。但し、彼のようにピアノのアスリートというものも十分に成立する。もっと言えば、例えばサラリーマンも、その仕事においてはある種のアスリートであると言えるのではないか。
では、「アスリート」とは何なのだろうか。
その答えは容易ではない。但し、今回ピアノリサイタルを聴いていて、ふと思ったことがある。
彼は、自分自身の「音楽教育者」というプロフィールに対して、自ら「反抗」しているのではないか。
「安易に俺を音楽教育者だとレッテルを貼られてたまるか」
そんな彼の反抗、あるいは反骨が、今回の演奏の底に通奏低音のように響いていた気がした。
おそらくアスリートとは、自分自身に満足しないものを指すのではないだろうか。アンコールで静かに美しく演奏されているBeethovenの「月光」第一楽章を聴きながら、そんなことをぼんやりと思った。もちろん、僕の勝手な思いつきではある。
大事なことを一つ言い忘れていた。
彼は僕の高校時代のクラスメートである。
お互いに還暦を迎えた今でも、こうして楽しく過ごさせていただいている畏友である。