主語の在り方 | くにたち蟄居日記

主語の在り方

年配のご婦人と話す機会があった。ご主人が昨年亡くなられたらしい。その際に、「昨年、主人を亡くしまして」と言われていた。「主人が亡くなりました」という言い方と、「主人を亡くしました」という言い方。二通りあるのだなと思った次第だ。

 

 言うまでもないが、その二つの言い方の違いは「主語」にある。「主人が亡くなりました」の場合は、「主人」が主語である。一方、「主人を亡くしました」という場合の主語は「私」である。

 

 配偶者の死を語る際に、「私」を主語にするということには、どんな意味があるのだろうかと考えると、案外と面白い。

 

 自分を主語にするということは、「自分語り」でもある。要するに、配偶者の死を「自分の物語」の中に織り込むということなのだろう。それを愛情ということだと考えれば、美しい話にも聞こえてくる。

 

 ただ、「自分の物語」には、自分なりのデフォルメや飾り立ても出てくるはずである。そもそも、そうした微調整こそが、「自分の物語」の中に「織り込む」ということなのかもしれない。

 

 一方で、「主人が亡くなりました」はどうだろうか。主人が主語である以上、淡々とした客観的な事実語りとでも言えるのだろうか。あっさりしているようにも見える。

 

 ただ、「淡々とした」とか「あっさりとした」というものの奥には、結構いろいろな、語られない想いや味わいがあることも多い。食事において、「あっさりとした味付け」が案外と美味しいというのも、よく聞く話ではないか。特に和食においては。

 ということで、主語の採り方一つでも、いろいろなものがあるのだなと思ったところだ。

 どちらが良いとか悪いという話ではない。ただ、違うというだけの話である。