エセー 第一巻 第十三章「国王たちの会談における礼儀」
この章は3頁程度の短いエッセイなのだが、中々笑わせて貰った。
「どのような集まりでも、人を待たせるのは目上の者の特権であって、身分の低い者が先に来ているのが共通のルールとなっている」
今の日本でもそのまま通じる話である。一種の常識なのかもしれないが、ではいったい何故なのかと考えると中々奥深い気もする。
「待つ側」と「待たせる側」という話なのだろうが、となると「待つ」という行為そのものに何か問題があるという話なのだろうか。「待っている間」という時間を考えてみると、それは「待たせる側」に自分の時間を委ねてしまっていることなのだろう。本来自分でマネージ出来るはずの「自分の時間」を他人に委ねるということはいかにも自分の自主性を放棄しているように見える。人と人とのパワーゲームにおいて、相手に自分の主張や自主性を放棄させることは紛れもなく「勝利の方程式」であろう。但し、そういうパワーゲームやマウントの取り合いとは本来の「待つ」という行為とは別物である。そんなゲームに興じているうちに、「待つ」ということ自体の意味を見失うことにつながらないか。
ベケットの高名な戯曲「ゴドーを待ちながら」という本を思い出した。主人公二人が行っていることは「待つ」ということだけであるという粗筋だったと記憶している。何かを「待つ」とはどういうことなのか。外からやってくる自分にとっての「未知」をどのように「待つ」のか。どれだけ自分を解放して「未知」を受け止める準備ができるのか。そんな話が「待つ」という行為の本質であるような気もしてきた。
タイパという言葉が誰の辞書にも載る時代になってきている。時間を効率的に使うということ自体に別に異論は無い。但し、時間をかけるしかない物事も少なくない。時間をかけて何かを「待てる」ということは豊かな話でもあるのだ。身分の低い者も「待たされている」間の時間の使い方次第では、そこに豊かさを見つけることも不可能でもないのではないか。
「待ち方」ということも結構重要なのかなということが最後の感想である。