「 山谷 ヤマの男」 | くにたち蟄居日記

「 山谷 ヤマの男」

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 新聞の書評で本書を知り、早速購入した。感想は以下二点である。

 一点目。著者が撮影する対象に実に寄り添って写真を撮り、話を聞いてきたのかが良く分かる。

 著者の視点は常に暖かい。第一義的には、著者の両親が山谷という場所で食堂を開いてきたから
という著者の特殊な経歴に因るところは大きいだろう。かの地で食堂を開く苦労はある意味では
想像出来ない。30年近く食堂を営んできた両親の苦労と、それ以上の愛情の深さは本書で
著者が繰り返し描き出している。

 そんな著者ならではの視点がある。実際に著者の暖かさがなければ本書はとても成り立たなかった
ろう。一人一人の物語を聞き出す著者の耳は確かである。勿論、彼らが語る「物語」は時に
虚構に満ちている。それは問題ではない。そんな「虚構」を作らなくては生きていけない姿こそが
真実であるからだ。あくまで相手に寄り添うという著者の姿勢が本書をとても安らかなものに
している。

 二点目。そんな著者に写真を撮らせた山谷の人々の心象風景を想った。

 ポートレートを撮って貰う。それは改めてどういうことなのかと考えてみる。
僕らも写真を撮って貰うときには、やや緊張する。素の自分ではなく、何かの自分で
なくてはならない瞬間であるからだ。結婚式の表情と、葬式のそれは異ならなければ
ならないということは無言のルールだろう。はっきりしていることは、カメラの前では
自分は何者かでなければならないということだ。

 山谷の人々もきっと同じ心境で著者のカメラに対峙したはずだ。著者のカメラを見つめる
表情は、一人一人全く異なるが、すべて同じとも言える。同じである点とは何か。それは
前記通り、カメラの前で「何者かになろうとしている」という点だ。何者かになろうとして
作っている「表情」は、彼らの作る物語以上に時として雄弁なのかもしれない。