「金澤翔子、涙の般若心経」   | くにたち蟄居日記

「金澤翔子、涙の般若心経」  

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 勤務先の横で金澤という方の小さな個展をやっていた。雄渾な筆に感銘を受けた。そんなことで本書を読む機会を得た。

 本書で紹介される金澤のエピソードで一番印象に残ったのは建長寺でのくだりである。建長寺にて席上揮毫の打ち合わせの際に金澤は机の突っ伏して寝てしまったという。慌てて起こそうとした母親を建長寺の管長は止めた。そうして「これが我々の求めている禅の行きつく境地なのです」と言ったという。

 「禅」という言葉をたよりにして金澤翔子という方の人生とその書を見直してみると、腑に落ちる部分が多いことに気づいた。金澤はダウン症という大きなハンディを抱えた。そのハンディのお蔭で得られないものが非常に多いことも想像につく。但し、そのお蔭で得たものの大きさもうっすらと見えてくる。

 「そのお蔭で得たもの」と僕は今言った。

 健常者であり、自分の子供も健常者である僕が「そのお蔭で」と言う事はとても無責任だ。但し、それ以上に金澤という方が得た稀有とも言える「大きなもの」が存在する。それが本書を読む感動だ。

 その「大きなもの」とは何か。言葉にはしにくいが「純粋な宗教」とでも言いようがない。教条も決まりも無い、純粋な「祈り」だけで出来ている宗教のように見える。その余りの純粋さに、建長寺の管長程の方ですら、いささか恐れ入ったということではないだろうか。

 本書の写真で紹介される金澤の書は見ていて楽しい。書いた方がハンディを抱えているかどうかとは無関係に美しい。
 但し、その「美」の根源は、やはり金澤という方がハンディを通して獲得した「祈り」にあるのではないか。それが
最後の読後感であった。