「レヴィナスと愛の現象学」 内田 樹 | くにたち蟄居日記

「レヴィナスと愛の現象学」 内田 樹

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 20歳代後半から読解力の低下を感じてきた。10歳代は同じ本を繰り返し舐めるように読んだものだが、いつしか読み飛ばす癖が付き始めていた。40歳代後半になって反省した。つい同時に何冊が読む事も多かったが、思い切って本作だけしか当面読むまいと悲壮な決意で取り組んだ本である。

 本書は簡単な本ではない。一度読んだ程度ではたぶん理解は半分以下であろう。但し、そこからが内田という方の語り部の芸である。読んでいるうちになんとなくレヴィナスという方に親近感を覚えてくる。たぶん、本書で内田が目指しているのもその辺りだと僕は思う・「レヴィナスは難しいけれども、なんとなく親しみを感じたね」というような感想が出ることが内田のテーマであったのではなかろうか。

 本書で一番感銘を受けたのは、まさに「読書とは何なのか」という本書を読みはじめた際の原点にある。本とはそれを読む人がその読み方によっていかようにも読めるということだ。もっというと、人は自分の読み方でしか本を読めず、自分の理解の仕方でしか理解できないということである。

 当たり前といえば当たり前だ。但し、結局本を通じて(内田がいうなら「師」を通じて)結局見えてくるものは自分自身でしかないというように考えると、いささか深いものがそこにある気がする。
 小学校の頃に父親に「僕が見ている三角形とお父さんが見ている三角形は見え方は違っているかもしれないが、お互いにそれを三角形と呼んでいるから話がなりたっているのではないか」と言ったことも思い出した。因みに、その僕の意見には父親もかなり誉めてくれたことも覚えている。そんな「三角形」の一つが本書だ。

 本書を読み終えてほっとした。新しい本が読める気がしてきたからだ。