旅行から帰ってきてから、知った某芸能人の訃報…。彼女の壮絶な生い立ちを以前から知り、胸が締め付けられる思いで一杯でした。
どれほどの恐怖と失望と、心身の痛みを抱えていたか、想像を絶する体験の連続だったはず。親から与えられなかった愛情を渇望し、何かに依存せずには生きられない状態でした。
私は身体的虐待は経験していませんが、精神的な虐待だけでなく、身体的に傷つけられる家庭環境では、精神は崩壊します。それは、彼女が決して弱い魂ということではなく、むしろ、とても強くて勇敢な魂だと感じています。
本来の彼女は、とても聡明でピュアで、芯の強い、たくましい魂なのだと思います。だからこそ、ここまで、なんとか持ちこたえていたのでしょう。
けれど、彼女一人が抱えるには、あまりにも重い試練でした。彼女は、自分を諦めていたわけではなく、精一杯、目の前の状況を改善しようと奮闘していたと思います。
具体的にどのような治療をされていたかは不明ですが、人格形成を阻害され、人への信頼ができない状態では、容易に他者を頼ることもできません。
毎日が綱渡りのような状態なので、相性の合う専門的な支援者達と繋がり、自分を立て直すことが、必要不可欠な事案ですが、運良く、素晴らしい相性の合う、無条件に味方になってくれる人と出会えるかは、時の運や巡り合わせもあります。
また、仮に良き理解者に出会っても、それでも心の修復には、多大なる労力とお金と、時間と、本人の努力や覚悟が必要になります。
私もいまだ回復の途中…。7年経ったけれど、唯一の理解者も去って行きました。
無意識に人との境界を超えてしまうので、今までも、たくさんの迷惑をかけていたことも重々承知でした。
けれども、意識する頭では、後から状況を振り返ることはできても、健全なラインまで持っていくのは、一筋縄ではいきません。境界の問題だけでなく、精神的幼児のままの、依存心や甘えを克服するのも簡単ではありません。
自分がいかに、機能不全家族の中で、心の制限や足枷、思考癖、認知が酷く歪んでしまっているか、どれほど、イタイ自分になっているか、痛感することの連続です。
情けない自分、ダメな自分、どんなにみじめでも、その事実を受け止めて、少しずつの改良を、目の前の経験を通して、改善していくことの連続です。正直言って、とても辛い作業です…。
最愛の夫は側にいるけれど、心の修復は、今は手探りで一人でやっています。
日々の出来事に心が乱されることがあっても、毎日を生きていけるのは、いつでも私の味方の最愛の夫と、やはり、唯一の理解者であり、支援者の(期間限定の)カウンセリングの成果だと感じています。
人を信頼できないととても辛いです(それは、自分自身に対する信頼度がまだ薄いことも明示しているのでしょうが)
人は、人がいるからこそ、生きていける。一人で自力で生き抜く力は、大前提として、もちろん必要ですが、時に、人に適切に頼ることも大事なことです。
母との間で、不覚にも築いてしまった、共依存という大きくて深い沼は、私の無意識下に、それが快の状態として、根っこをはっています。
共依存のことを学びながら、中にはACは卒業した、という表現をする方もいますが、私は、医療用語で言うところの、「寛解」と捉えています。
(※寛解…病気が一時的に寛(ゆる)くなり解(と)けたような状態になること。ひとまず、症状が落ち着いて安定した状態。このまま治るかもしれないし、なにかのきっかけで再発することもある状態。完全に治ることを表す「治癒(ちゆ)」とは異なる。)
以前よりも程度がマシになる、早い段階で、行き過ぎた境界線に気づける、など、事態が以前ほど深刻になる前に、対策が取れ、軌道修正ができる状態になること。
そして、やがて、それが新しい心の習慣として定着すれば、意識しなくてもできるようになっていることに、ある時、ふと気づくような感じだと思います。
完全に治るとは、期待しない方が良いと、私は感じています。
依存心や甘えの克服は、行きつくところ、幼児時代の口唇欲求を、自分で満たして育ててあげて、自分の意思だけで人生の舵取りをして、人生を充実させることに尽きる、と思います。
誰かを目標にすることは良いけれど、無意識に(だから厄介なのですが…)その人に同化しようとしてしまうのは、親を理想化して、奴隷になるのと同じ行為です。
共依存は自己の喪失なので、自分より他者の意見に正解を見出そうとする癖もあります。人への依存心や、他者への過剰な美化も、私の注意どころです。
けれど、どんな状態でも、充分生きている価値はある。
人生の前半50年近くを、他者の為に生きたのだから、今から、自分の為に生きようと思っても、なかなか簡単ではありませんが、些細な小さなことから、自分が喜ぶことをする、やりたいことをやる、それに全力投球するしかありません。
もうACだろうが、人と健全な関係が築けなかろうが、自分を責めずに、どんな自分も許して、一瞬一瞬を、生きる喜びに費やして生きていきたい。
なぎこさんも、本当は、そうしたかったはず。けれど、重度の摂食障害やうつもあり、それが叶うところまで、心を取り戻すことが困難だったのです。
一人では抱えきれない試練。これは、社会の縮図として、そんな人達を、早期発見し、理解ある里親に引き渡し、早い段階から、心の修復と、人生の生き直しをサポートする体制づくりが大切です。
耐え忍んでいる、自活できない子どもを毒親から、重症度によっては引き離し、守る保護施設と、健全で、専門的知識と技術が豊富なスタッフ達が、プライベートな機能不全家族に、公的に、法的に、毅然と介入できるようにする体制や人材、心の癒しと修復を促すカリキュラムを構築すること。
(教育にとりれてほしい位です。感情の扱い方、自尊心、自己肯定感のこと、他者と自分を尊重した生き方、機能不全家族とは何か。健全な親とはどのようなものか、自分の家庭を客観的に知る方法、好ましい信念の築き方、境界線のこと、などなど)
事態の放置は、複合的な悪化を招いていきます。それは、目には見えない心の中で進行するので、とても複雑なのです。
今の政治家達が、そんなことに税金を費やすことなど、しないでしょうが、民間でもいいから、そんな機関や施設が必要です。
自我の形成に成功している人達から見れば、彼女の言動は、とても奇妙で、早く病院にかかればいいのに、とか思うでしょうが、事はそう簡単ではないのです。
好きでおかしくなったわけではありません。生き抜く為に、認知も歪み、完璧主義になり、不健全な思い込みや信念を身に着け、自分を罰しながら、その環境で生き延びてきた、悲しい痕跡なのです。
物理的に親から離れたり、親が他界しても、それで、解決するわけではありません。
マツコさんがかけた、愛ある言葉が記事に出ていましたが、自己の形成を阻害されて、本来あるはずの健全な人格が、心の中の軸として、出来上がっていないのだから、本来の自分に戻りたくても、本当の自分が、どこにあるのか、自分の純粋なる意思が、どこにあるのかさえ、わかりません。
自分の意思だと思っても、親から植え付けられたインナーマザーの声が、たくさん、無意識に入ってしまっています。その判別さえ、最初はつきません。
自分を取り戻す作業の真骨頂は、親と別離してからが、真の地獄の始まり、ともいえます。
異常な親に染まったまま、自分の本当の心が苦しくても、自分の抑圧した感情を見ないままで、生きていた方が、今までの延長だから、お馴染みの行動なのです。
つらすぎて見たくない感情と対峙することは、容易ではありません。
そのままにしておいても辛いけれど、向き合うこともまた、とても辛いのです。
どうか、来世では、幸せな家庭に生まれ変わって、ありのままの自然体の彼女として、大いなる才能や魅力を発揮して人生を謳歌してほしいと切に願います。
それと同時に、そんな人達を、早期発見し、早い段階から、心の修復をする専門家、法的な制度も含めて、そのような組織、機関の形成を望んでやみません。
私もあと20年早くから、原家族の異常さに気づき、心の修復に取り組んでいたら、もっとたくさんのことができたと、思います。
しかし、時は取り戻せないので、修復がまだ中途半端でも、イタイ自分でも、ネガティブな思い込みが激しくても、旅行後に、身体があちこち痛くなり、通常モードに戻るのが、若かりし頃より遅くても、はってでも、やりたいことをやっていきたい、その一心です。
そう思えるところまで、自分の心のセンサーが回復してきたことも、実感として感じています。
感情が麻痺していた時は、痛いことも、辛いことも、嫌なことも不快なことも、耐えるしかなかったから。
七夕に願いを託して、より良い、本来の私に蘇りますように。