十牛図(じゅうぎゅうず)
・・・ 悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。
「真の自己」が〝 牛の姿 〟で表されているため十牛図といい、
真の自己を求める自己は〝 牧人の姿 〟で表されている。
十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)や牧牛図ともいう。
作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。
Wikipedia より
序
どんな人にも仏の真源、仏性が備わっているが、
迷いの世界に入り込みもがき苦しんでいるので、
そこから逃れる方途をこれまでも示されてはきたがそれらは不十分であったので、
新たに廓庵禅師は牧牛によってその方途を示された。
尋牛
・・・ 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。
人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる。
人々は自然の在るべき姿から離れ、欲にまみれ、
自身の〝 真性
〟に気付かず、くらまし、
ますます本心から離れて生きていっております
そんな生き方、人間の在り方に〝 空しさ 〟を観じ、
自己の本質を悟る為に、この人は自身の家(小智才覚)から離れていきます
心を起こす、発心という
見跡
・・・ 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
かつての聖人・賢者たちが書き残したことばを知るが、
まだ〝 真性
〟を掴むところまでは至れない
先人たちの教えは、
その道に心身をなげうって飛び込み、
行じてこそ意味があるのです
見牛
・・・ 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
得牛
・・・ 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
いかなる聖人たちの教えも、
すべては人間の〝 真性
〟を悟らせるためにあるのですが、
それを邪魔するものがあります
この世だけの思慮分別や小智才覚、常識、偏見、
欲、感情、過去世からの想念行為が、
業(カルマ)となってその人の真性を覆い、くらます・・・
しかしこの人はもう、先人たちの教えによって、
その〝 光
〟をとらえているのです
牧牛
・・・ 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、
捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。
慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる。
自身の本質(本心・霊光)を知って、
その光にすべての想念行為を任せていこう、
本心のままの想念行為を現していこうとしている段階
騎牛帰家
・・・ 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
祈りが深まり、本心をおおう業の黒雲も薄れて、
その人は自身の〝 真性
〟を見失うことがなくなった
常住坐臥、平時の行いの中で、
その人は真性を見出し、すべてと争うことをしない
安心立命
心が円満であることを知り、
その響きに任せて、生きていることを楽しんでいる様が、
絵からも伝わってきます
その笛の音色を聞く人も、心が癒されていくのではないでしょうか
忘牛存人
・・・ 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
ここから、今まで追い求めてきた牛の姿が描かれていない
今までの先人たちの生き方、教えを辿り、
自身の〝 真性
〟を現わすことをひたすらに求めてきた
すべては本心を知るための指標であった
すべては私の中にある
朝日に感謝し、生かされていることに感謝し、
すべてのものに手を合わせて拝んでいる姿が描かれています
手を合わせながら、その人は何を感じているのでしょうか
内から内から溢れ出てくる〝 生命
〟の輝き、
そのものへの感謝でしょうか
それを教えてくれた、すべてに、でしょうか
人牛倶忘
・・・ 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。
忘れるということもなくなる世界。
ひたすらに 神を想ひて合はす掌の それさへ消えて ただに青空
ひたすらに感謝一念の生活、
天への全託が深まっていったのだろうか
先人たちの教え(牛の足跡)、本心(牛)の姿はおろか、
もう人の姿さえ写ってはいない
その人の心の内にあった〝 生命の光
〟が、
彼の意識を、生命の本源、source にまで還元させてしまった
もうその人は、天と己とを離してみようとはしない
すべては私の中にあり、
すべてが、私自身であるからだ
返本還源
・・・ 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
空即是色
天から生まれていないものなど一つとしてない
人も動物も植物も鉱物も、みな、
天から生まれ、天に生かされているものなのだ
ここに人の姿は描かれてはいない
動物や植物、自然の姿は、
天の運行そのままに、生かされていくものであるが、
人だけは違う、内に〝 真性
〟を持って生みなされた存在である
天の〝 創造性
〟という権能が、そのまま各人に与えられているのだ
その真性を発揮し、この世界のあらゆる法則を使って、
この世界に形の上での創造を成し遂げていくものである
私たちは、天から地に遣わされた、開拓者なのである
入鄽垂手
・・・ 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。
再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。
小聖は山に籠り、大聖は市井に暮らす
下の絵はまるで良寛さんのようですねッ
民衆の心を心とし、
世間話でもしているのでしょうか
しかしその姿は、七福神の大黒様のような姿で描かれています
その荷物は、その人の徳の大きさを示しているのでしょうか
天の道に生きながら、
その身を俗世に落とし、
平々凡々たる生活を当たり前にしていく
世間からは普通の人に見えて、
しかしその心は、世俗に汚れず、惑わず、乱れず、
清澄な天の響きを、そのまま、民衆の心に伝えていく
そんな人を真の人、〝 平和の祈り人
〟というのです
世界が平和でありますように