ゲツセマネの丘の上で
キリストはイエスと云ふ名の肉体を離れる最後の深い祈りに入つた

彼は自己の肉体が神の器である事を識つてゐた

神の意志を語り神の愛を輝かせつヾけた彼の眼彼の掌(て)彼の唇が
ほどなく天に還つてゆくのを識つてゐるのは
大神と天使たちと彼自身であつた

詩集 『 ひびき 』 より

わが父よ、
もし得べくは(願わくば)この酒杯(十字架上の死)を我より過ぎ去らせ給え
されど我が意の儘にとにはあらず、
御意のままに為し給え
よく映画ではこのシーンは、
イエスが肉体の死を恐れている描写が成されておりますが、
これは未熟な弟子たちや信者たちのために、
もう少しこの世界に残って働かせてくれないかと、
天に向かって願っている意味であり、
それでも尚、
わが意の儘にではなく、
御心がゆるすならばと謙虚な気持ちで祈っているのであります
イエスはこの時30歳を超えたくらいの、
まだまだ若い青年です
しかしその肉体は非常に繊細で、
人々の想念波動をもろに感じ取ることができました
ですから、天父や天使たちとは、
肉体に生活しながらも、
全く一つ場所にいるように交流ができたのであります
こういう体を持っている人は、
現在でも随分といますねッ
人々の想念を清め、
また新たな朝をむかえようとする、
朝靄の森の中を歩いていると、
私はこの世界の素晴らしさと、
人が本来、もって生まれた使命とを、
想わずにはいられない、、、
どうして私たちは生きているのか?
どうしてこの世界は存在しているのか?
私はそんな世界のことを、
感じずにはいられない、、、
なぜ人は生きるのか?

かつてこの地を歩いた人は、
人の真価をみきわめ、
空(くう)の道を説いた

かつてこの地を歩いた人は、
世界の真理をしらせようと、
その身を十字架に捧げた

かれらの体を礎にして、
今の大地は敷かれ、
天はひらかれたというのに、
また人々はその想念を縁として、
この地を暗黒に閉ざそうとする、、、

なぜわたしたちはいきているのか?

人の真の価値をこの地に下すために、
わたしたちはいきている

生命の存在意義をこの星の上にあらわすために、
わたしたちはいきているのだ

人の世はあまりに短く、
あまりにはかない

たった数十年のときの中で、
あなたたちと共に、
最後の花をさかせられることを、
誇りに想います
