視よ、これは我が母、わが兄弟なり。
誰にも神の御意を行ふものは、
是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり。
マルコ伝三章二〇 - 三五節
この世の建て直しとか、人類救済という、
神のみ心をこの世に顕現しようという立場に立たされた人は、
この世的には多くの苦難があります
いかなる聖者も肉体身は生まれながらにキリストでも仏陀でもないのですから、
キリストになりきるまで、
仏陀の本心を現わしきるまでは、
さまざまの苦悩があるのですが、
その霊なる立場をとることと、
肉なる立場をとることとの調和がむずかしいことであるのが今更のように思われます
イエスの母のマリアは、
今日でこそ聖母マリアとして救い主の側にあって、
〝 高級神霊 〟として、
神霊の世界から人類救済の手を差しのべられておりますが、
イエス在世中は、
わが母とは誰ぞ、その人を知らず、
とイエスにいわれた程の信の心だったのですから、
処女懐胎の話も、
イエス・キリストを神秘化するための逸話であるに過ぎなかったと思われます
しかし、イエスが十字架にかかり、
霊身としてキリストとして自己の前に現われて以来のマリアは、
肉体観念を脱皮した〝 聖母マリア 〟としての心境になっていきました
人間が肉体身として、自己を見、他を見ている限りは、
その人の心は〝 天 〟との一体化を体得出来ません
人とは〝 精妙なるひびき 〟の聖なる者であり、
肉体はその現われである、
とみることが出来るようになって、はじめて、
天との交流が素直に出来るのであり、
天地を貫いたいきいきとした生命体になり得るのです
肉体界において、
例えいかなる苦しみがあろうとも、
幽界の苦しみにくらぶべきもないのであり、
肉体界において、
過去世の業因縁をはらい浄め、
人のためにつくしておくほど、
あの世における立場が善くなることはないのであります
この世において生命を生かさず、
享楽を追って安易に日々を送ろうとすることは、
あの世に多くの苦の種を積み重ねてゆくことになるのです
この世の苦難など恐るるに足らず、
積極的に人々のために奉仕せよ、
奉仕の最大なるものは、
世界の平和を祈ることなり
ほぼ 『 聖書講義 』 より抜粋いたしました