短歌人2017年1月号会員秀歌 | アンダーカレント ~高良俊礼のブログ

アンダーカレント ~高良俊礼のブログ

短歌、音楽、日々のあれこれについて。。。

もどりたくなくなるようなおてんきのにんげんは影、ひくだけの棒 (鈴木 杏龍)

 

「もどりたくなくなるようなおてんき」ってどんな天気でしょう。雨なのか曇りなのか、それとも雲ひとつない青空なのか。どの天気を想像してみても何故か悲しく、戻りたくなくなるような不安に駆られます。意思の不在、虚無、どんな言葉を並べても歌の余韻に含まれるこの強烈な不安には敵わない。悲しい、けど痛切。

 

 

凪の凪うちひしがれて遠浅の遠浅すでにして久しい日 (辻 和之)

 

「凪の凪」「遠浅の遠浅」繰り返される単語から不思議な韻律が生まれ、読んでいるこちらの意識下で反復し、どこか遠くへ誘います。「聴く人をどこか遠くへ連れていかない音楽は、音楽として失敗だ」と言ったのはラ・モンテ・ヤングでしょうか。凪と遠浅が想起させるものは空白と静寂の美しいゆらぎ。

 

冬の陽のやさしくふかくさし入りてどこかとはこの部屋のこと (田 平 子)

 

さて、私たち歌詠みは「どこか」へこだわります。今回の感想文のテーマも、もしかしたらそれかも知れません。ところが歌詠みである私たちは、大抵の場合はその「どこか」を限られた一点で創造します。それは自室でありますが、もっともっと突き詰めると意識の内側、心の内側です。その事を端的に諭すような優しく厳しい響きの歌。

 

一生(ひとよ)とは虚しさ悟るための川短歌(うた)を肴に飲む酒覚え (黑田 英雄)

 

音楽や文芸に触れ、それが心に”ひびく”ようになるには、”ひびくようになる人生経験”が必要だと常日頃思います。それは楽しい嬉しいばかりではなく、時に苦味に溢れたものでもあったりします。それでも人生は短く、そして虚しい。否、それこそが人生と、作者は酒の苦味を噛み締めます。飲めない私もすっかり同感を覚え、その味を想う不思議。

 

非正規の保母つづけいて腰痛にめげず「子供が好き」と妹 (村井 かほる)

 

体も頭も気も使う、ついでに言えば責任も重い保育士という職業。この仕事は非正規が多く「子供が好きだからやれる、そうじゃないととてもやってられない」という人も多いでしょう。腰痛は言うまでもなく子供を抱きかかえたり、前屈みになって接することによる職業病。善意が巨大な何かに吸い取られている感じのする昨今です。

 

幾百と防犯ビデオに吾が姿残して今日の外出を終え (野上 卓)

 

都会では防犯カメラが増えております。別にやましいところがなくとも、その前を通れば通った人の姿は録画されます。社会的な”怖さ”はさておきで、その録画された自分の姿が本人の預かり知らぬ所で保存され「あちこちに自分がいる」という事の恐怖。淡々とした詠みがヒッチコックの映像のような精神的な”怖さ”を描いております。

 

雨の日はカラスの声も湿りゐて霧笛にまざる秋の深まり (古賀 大介)

 

短歌は五七五七七の定型ですが、同時に詩でもあると思います。やはり詩としてグッとくるものが好きです。韻律がその詩情とピッタリマッチしていればなおいい。この歌はまず「カラスの声も湿りゐて」が秀逸ですが、「雨の日」から「秋の深まり」までがどれも見事に韻律と絡む詩情です。強烈な主張よりも深い詩情。本当に美しい。

 

たおたおと秋明菊を揺らす風、歌に詠めざりしかなしみさやぐ (小島 千恵子)

 

他人の作った歌を読む時に「あぁ、この人もそうなのか・・・」とヒリヒリすることがあります。それは”かなしみ”をそこに見た時。そう、本当に悲しい事は言葉には出来ない、ましてや詩のように美しいものにはなれない、断じてなれない。だから元の悲しみに詩という化粧を施して、美しく葬ってあげるしかないのだ。

 

アイラーが浮かんだ川の水を飲むアフリカ象の耳は大きい (いなだ豆乃助)

 

なんのこっちゃいと思われるかも知れませんが、冬のイーストリバーで変死体として見付ったジャズ・ミュージシャン、アルバート・アイラーのことです。フリーフォームから、或いは彼独特のひしゃげたブルース・テナーといえる表現から放たれる音楽は、アメリカ南部、カリブ諸島を通ってアフリカへと、黒人音楽のルーツを強烈に感じさせるものでした。耳の大きなアフリカ象は、彼が交信していた地霊かもしれません。

 

わが部屋にコルトレーンの亡霊を喚び出してをり針を落として 

音楽は儀式のごとく展開す 承認、決意、追求、賛美と    (鈴木 秋馬)

 

これまた何のことだと思われるかも知れませんが、ジャズの巨人、ジョン・コルトレーンの名盤と呼ばれる『至上の愛』という作品のことを詠んだ連作です。コルトレーンの音楽、特に精神世界に傾倒したと云われる1960年代の半ば以降の音楽は、レコードに針を落とした瞬間に過激で荘厳な異世界が呼び覚まされるような、儀式のような音楽です。哲学的な詠みが彼の音楽をヘタな評論より見事に浮き上がらせています。これは純粋にコルトレーンファンとして嬉しい。

 

当方は注文の多い短歌です。どなたもどうかおよみください

どうか比喩(直喩もそして隠喩も擬人法をも)お脱ぎください

香水を、否酢を垂直に立てる酢を頭からばしやばしやかけて (冨樫由美子)

 

宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』の素晴らしいオマージュ。短歌を詠む(或いは読む)に、とかく歌詠みはうるさいもの。そこにチクチク刺激を与えながらユーモラスに展開するこのセンスはただもうお見事で爆笑です。連作全部乗せて大人から子供まで楽しんで欲しいですね。連作最後の3首目には更に有名短歌のオマージュがあり、これにもニッコリ。