我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか | サウンドレゾナンス『観て聴いて感じて扉を開けて』ありのままの私

サウンドレゾナンス『観て聴いて感じて扉を開けて』ありのままの私

サウンドレゾナンスというツールで自分の声から自分を知っていく生活の中から共振共鳴したこと、ただただ思ったこと暮らしの中でみつけた小さな喜怒哀楽などを書き綴ります。福井県にてサウンドレゾナンスコンサルタントとして日々響きとともに在ります。





我々はどこから来たのか,我々は何者か,
我々はどこへ行くのか

 (D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?) 1897年 | 139×374.5cm | 油彩・麻 | ボストン美術館

後期印象派の代表する巨匠にして総合主義の創始者ポール・ゴーギャンの画業における集大成的な傑作『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』。1895年9月から1903年5月まで滞在した、所謂、第2次タヒチ滞在期に制作された作品の中で最高傑作のひとつとして広く認められる本作に描かれるのは、ゴーギャンが人類最後の楽園と信じていたタヒチに住む現地民の生活やその姿で、本作にはゴーギャンがそれまでの画業で培ってきた絵画表現はもとより、画家自身が抱いていた人生観や死生観、独自の世界観などが顕著に示されている。完成後、1898年7月にパリへと送られ、金銭的な成功(高値で売却)には至らなかったものの、当時の象徴主義者や批評家らから高い評価を受けた本作の解釈については諸説唱えられているが、画面右部分には大地に生まれ出でた赤子が、中央には果実を取る若い人物(旧約聖書に記される最初の女性エヴァが禁断の果実を取る姿を模したとも考えられている)が、そして左部分には老いた老婆が描かれていることから、一般的には≪人間の生から死≫の経過を表現したとする説が採用されている。また老婆の先に描かれる白い鳥の解釈についても、言葉では理解されない(又は言葉を超えた、言葉の虚しさ)を意味する≪神秘の象徴≫とする説など批評家や研究者たちから様々な説が唱えられているほか、画面左部分に配される神像は、祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)とする説や、月の女神ヒナとする説が唱えられている。さらに本作を手がける直前に最愛の娘アリーヌの死の知らせを受けたこともあり、完成後、ゴーギャンはヒ素(砒素)を服飲し自殺を図ったことが知られ、それ故、本作は画家の遺書とも解釈されている。本作に示される、強烈な原色的色彩と単純化・平面化した人体表現、光と闇が交錯する独特の世界観はゴーギャンの絵画世界そのものであり、その哲学的な様相と共に、画家の抱く思想や心理的精神性を観る者へ強く訴え、問いかけるようである。

私の声の周波数はターコイズブルーの周波数が強い特徴を持っています。ターコイズ「私は誰?」という意識が強い周波数です。「私は誰?」と思ったのはいつからだろう?ってその頃を感じてみましたら、保育園の頃にはもうその意識を持っていました。ゴーギャンのこの絵をみたときに、この人もそうなんだ(おこがましいですが)と感動したのです。

我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか

私たちはどこから来たのでしょうか?
そして
私たちは何者なのでしょうか?
そして
私たちは何処へ行くのでしょうか?

それを知っている人はどのくらいの人たちしかいないのでしょうか?
いくら瞑想をしても、いくら精神世界に身を投じて探求しても、解らない。

ここで、感じていることは、「自分は何をする人なのだろうか?」という、自分は?にすげ替えられていたという事です。
サウンドレゾナンスの創始者、コマラ・ローデに「あなたは、自分が何をする人なんだろう?こういう人間でないといけない。という生き方をしているけれど、それではない、ただ来る物をそのままありのまま受け取っていけばいいの」と言われたことを思い出している。

ヒプノセラピストの私、
オーラソーマのプラクティショナーである私
サウンドレゾナンスをする私
ラビングタッチをする私
クリスタルヒーリングをする私
その他習得してきた物をする私

これは第3チャクラの 私を強化しただけで、
ターコイズブルーの私は誰?とは当てはまらないと言うこと 大儀の部分での私は誰?ということがターコイズの探求
そして、ターコイズが何故 探求するのか?

私(三次元的な)イエローの個の私ではないのですね
ターコイズブルーの補色コーラルには相互依存というキーワードがあります。互いが互いの存在を尊重しそして共有する空間に個として存在するが、その個々的な生き方は大きな繋がりの中で行われている。
といったもの・・・コーラルは名前の通り柔らかく傷つきやすい存在
自分がそもそも裸で生まれてきたことを思い出すと、ほんとうに柔らかで下手すると直ぐ死んでしまう存在で、人間として生まれ生きていることが奇蹟なのだと、生まれたことの不思議さを感じます。

私を強化する生き方 それはアイデンティティの確立という事だとは思います。第三チャクラの個というものはでは何故必要なのでしょうか?それはきっと、思い出すためなのではないでしょうか?
我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか
という事を
私が思い出す
そして私がその目標を定めて歩んでいく
私がなければ、顔を上げて行く方向を見定めて自分自身をそのゴールまで持って行くことはできないでしょう。

この絵を見るたびに、この絵を初めてみたときの衝撃を思い出します。
ゴーギャンは極彩色の島に移りきっとそこに何か答えがあると思いすがる思いで何かを探したのではないか?と思います。
そして、絵という物で自分の内側からわき上がる問いかけを表現していく。
我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか

この問いかけに答えが出ないから、ゴッホは耳をそぎ落とし、ルノアールはリュウマチで動かない身体に鞭を打ち、平山郁夫はシルクロードを描き続け芸術のターコイズブルーを探求しつづけたのではないのか?と思います。

~をする人ではなく
人として生まれた意味、意義からくる生き方をしたいものです