ついに・・・・・12月になりました。
様々な気持ちの狭間で、理性という頭と、感情という心の葛藤のような日々。
何が辛いとかではなく、何かが辛い・・・。
はっ~
しかし、答えというのは勝手にはやってきてくれない!!と、考えるわたし。
人に会い、本を読み、考える・・・。
「闘いの軌跡」
川島書店より。
まだ、すべては読めていません。
ところが、この本を飛ばし読みしていて、すっごく共感した文章がありました。
「子どもを総体として思い出すのはいいけど、一つひとつの思い出を思い出そうとするとつらい」
まさに、わたしの今の心境!!と、頷きました。
この本は、小児がんでお子さんを亡くされた方でなくても、多く共感できる本だと思います。
そして、「わたしだけじゃない」多くの感情がつまっています。
感情移入しながらだと、かなり読み込むのに時間がかかります。
しかし、お子さんを亡くされた方だけでなく、現在も治療を受けられている方々にも読んで頂けたらとも思いました。
健康なお子さんを育てていると、考えもしないことばかりかも知れませんが、世の中には常に生と死と向き合って生きている子どももいます。
そのような状況になった時など、いつか訪れる最期の時間を最大限に有効な瞬間として迎えるには、親としても心の準備は必要です。
ただ、漠然と最期の瞬間を迎えるよりも、生きられることを強く願いながら、それでも訪れる最期の瞬間を素敵な瞬間にできるように。
親としての覚悟は必要で、逃げていたら後悔してしまうこともあるのだと思います。
時と場合によっては、縁起でもないと叱られるようなことですが・・・。
「死」
日本では、タイミングや場所によってはタブーとされるような単語です。
しかし、実際には誰でもが「死」を迎えます(頭では分かっているのだけどね)。
それが、年齢という上からの順番だと思っていたら、子どもにでも訪れた訳です(わが家では・・・)。
そうして、現実となった「死」を迎えてから、「死」の看取りを振り返っても、その瞬間とそれまでの時間は戻ってきません。
出来ることといえば、遺された人間が後悔しないように、過去になってしまった日々を思考の中で肯定的に意味付けをしていくだけです。
それでも、心の中では、故人にとってそれでよかったのだろうか…という気持ちが残るのかも知れません。
もちろん、子どもの入院中に「死」をイメージするというのは、「この子が死ぬかも知れない。」ということを考える訳ですから、お叱りを受けることもあると思います。
でも、「死」を全否定したままで「死」の瞬間を迎えることになると、生きている時に「死ぬのならしてあげたかったこと」ができなくなります。
「生きる」ために、面会を我慢して逢えない祖父母や兄弟や友人。
いつか「死」を迎えるのなら、逢わせたい・逢っておきたい祖父母や兄弟や友人。
生きることと死のバランスを見つけるのは難しいです。
でも、その瞬間を逃したら、逢いたかった…、逢わせてあげたかった…、と、心に残って行きます。
「死」を見つめても、生き続けてくれたら、笑顔で「あの時は~」って、話せればいいだけ・・・。
「死」を考えないことだけが、その子を救うことにはならないのだということ。
でも、日本社会のなかでは、「死」を否定することによって「生きられる」ことを信じていることを表現する場面が多くありますから、難しいですね。
「生きる」ことも「死」も、全部をひっくるめて、その子を見つめる。その子を受け止める。その子を育てる。
そして、その子に育てられている‘わたしたち‘。
実際には、日本の小児医療現場での面会制限や付き添いなどが改善されれば、少しは変わるような気もしています。
