●デイヴィッド・ピーストン、54歳で死去 | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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● デイヴィッド・ピーストン、54歳で死去

【Soul Singer David Peaston Dies At 54】

訃報。

ソウル・シンガーとして1980年代後期から人気を集めたデイヴィッド・ピーストンが2012年2月1日(水)ミズーリ州セントルイスで54歳で死去した。死因は糖尿病からの合併症。しばらく前から糖尿病を患い、両足を一部切断、義足をつけていた、という。

デイヴィッド・ピーストンは1957年3月13日セントルイス生まれ。幼少の頃はご多分にもれず教会でゴスペルを歌っていた。その後学校教師となったが、教師のレイオフを機にニューヨークに出て、アポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」でビリー・ホリデイの「ゴッド・ブレス・アワ・ラヴ」を歌ったところ大喝采を浴びて、プロへの道が開かれた。その後1989年、「トゥー・ロングス」、バラードの「キャン・アイ」などが大ヒットした。その特徴的なハイ・ヴォイスが独特で、当時は多くのファンを集めた。

デイヴィッド・ピーストンの母マーサ・バスはゴスペル・シンガーで、クララ・ワード・シンガーズの一員、姉のフォンテラ・バスは1965年に「レスキュー・ミー」のR&Bヒットを放っているシンガー。

24年連れ添ったハイスクール時代からの妻、ミッチェルによると「彼は陽の当たらなかった最高のアーティストです。素晴らしいシンガー、父、おじさん、でした」という。

ピーストンはミッチェルと2人の息子によって送られる。

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圧巻。

デイヴィッドのライヴは、ショーケースを1989年に見て圧倒された。すっかり大ファンになったが、彼を見ていると、最近だと、その後『アメリカン・アイドル』から出てスターになったルーベン・スタッダードを思い出す。ルーベンも巨漢で、ハイヴォイス。最初、ルーベンが出てきたとき、このデイヴィッドを思い出したほど。どちらも、実に歌がうまい。糖尿病が原因とのことだが、本当に惜しい人たちが次々に亡くなるのでやるせない。

それにしても、よりによって「ソウル界の大物」ドン・コーネリアスの命日と一緒になってしまい、ほとんど報道されていないが、ご冥福をお祈りする。

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(特別寄稿)

デイヴィッド・ピーストン・デビュー作、ライナーノーツ。

デイヴィッドのライナーノーツを再掲載します。1989年9月に執筆されたもの。なお、日本盤では久保田利伸さんのライナーとともに掲載されました。表記などは当時のままです。ライナーを読み返したら、当時のことが思い起こされました。ほんとにいいシンガーだったなあ。約23年前のライナーです。まだこの時点では生年月日はわからなかったようですが、それ以外特に書き直すところはないですね。(笑) 当時の興奮ぶりが伝わるというか。(笑) 

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■ デイヴィッド・ピーストン・デビュー

Introducing
Introducing
posted with amazlet at 12.02.03
David Peaston
Geffen Records (1989-06-20)
売り上げランキング: 38865


 今度あなたのレコード・ライブラリーに加わることになった一枚のアルバムをご紹介します。

 デイビッド・ピーストンの『イントロデューシング・デイビッド・ピーストン』

「ショウ・タイム・アット・ジ・アポロ」で6週連続勝ち抜き
強力新人デイビッド・ピーストン

 とてつもない新人が登場した。このところ、女性シンガーには有望な新人が続々と出ているが、あまり男性シンガーからずば抜けた人が出ていなかっただけに、この新人の登場は衝撃的である。その名はデイビッド・ピーストン。今年の男性新人賞は決定的であり、それだけでなくここ5年を振り返っても、彼ほどのインパクトのあるシンガーはいないほどだ。

 丁度、89年5月末、アメリカのブラック・ミュージックの業界誌、「BRE(ブラック・レイディオ・エクスクルーシブ)」のコンフェレンスがロスであり、デイビッドはそのアワード・ショウで2曲を歌ったが、そのリアクションは大変なものであった。僕もステージの真ん前で彼の歌を見ていたが、1曲目(「トゥ・ロングス」)ではそれほどのリアクションはなかったが、2曲目に「ゴッド・ブレス・アワ・チャイルド」を歌いだすと、徐々に観客が立ち上がり、最後には大歓声ともにスタンディング・オヴェイションとなった。目の前にはちょうどクインシー・ジョーンズなどもいたが、彼も興奮して立ち上がって拍手を続けていた。僕自身もただのショウ・ケースで、これほどの歌を聞かせてくれたシンガーに出会ったことがなく、思わず、写真を撮るのも忘れて彼の歌の世界に没頭してしまったものである。

 たまたま彼のパブリシティを担当していたのが、知り合いのレジーナ・ジョーンズ女史(60年代に『ソウル』という新聞を出していた人。現在はアーティストのパブリシティ会社をやっている)だったので、すぐにアルバムのテープとバイオをもらった。アルバムは予想以上に素晴らしく、しばらくは毎日の様に聞き、今では今までのところ今年一番のお気に入りアルバムになっている。そのアルバムがこれである。

 さて、そのデイビッド・ピーストンはアメリカ南部セントルイスに生まれた。現在30代前半だという。彼の母はマーサ・バスといい、有名なゴスペル・シンガーで、また彼の姉はフォンテラ・バスというソウル・シンガー。彼女は65年に「レスキュー・ミー」というソウルのナンバーワン・ヒットを放っている。

 デイビッドが振り返る。「僕はいつも低い声を出したかったけれど、だめだった。だから昔は歌いたくなかったんだ。僕の友達には、こんなでっかい奴があんな高い声を出すというので笑われたものさ。そこで、僕は教会のミュージシャンになったんだ。結局、カレッジにはいった頃、ボーカル・グループにはいったけれど、いつもハーモニーをつけるだけで決してリードは取らなかったよ。」 

 だが、歌うことを避けていたデイビッドにちょっとした運命のいたずらが起こった。あるとき、母親が歌うはずだった教会で、彼女が来られなくなり、代わりにデイビッドが歌わせられることになった。初めは躊躇していた彼もしかたなく歌い始め、しかし最後にはみんなから拍手喝采を浴びたのである。こうして、彼は再び人前でソロで歌うことに自信を持ったのである。1977年のことだった。

 一方、彼はセントルイス大学から教師になるべくハリス・ストウ教師大学で勉強を続け、結局、教師の免状を得、教師になる。しかし、81年、教師のレイオフがあり、彼はニューヨークへ引っ越すことになった。
 つまり、彼にとってはニューヨークは教師も続けながら、しかも歌う場所がある地だったのである。

 ニューヨークでは彼はゴスペル・ミュージカル『ドント・ゲット・ゴッド・スターテッド』のオウディションを受けるが、ここで、現在のマネジャーであるバリー・ハンカーソンに出会う。このバリーはこれまでにワイナンズ、ジェームス・イングラムなどをマネージしている人物で、彼はデイビッドの歌に感銘を受け、すぐにマネージメント契約を結んだ。

 86年、デイビッドはアポロ・シアターの毎週水曜日に行われている「アマチュア・ナイト」に出て、やはり観客を圧倒した。

 そして、翌年この「アマチュア・ナイト」がNBCテレビの番組になることになって、番組のプロデューサーがデイビッドに声をかけた。そして、彼にとっての歴史の第一歩が始まった。
 ニューヨークのアポロ劇場は、ブラック・アーティストの登竜門としても名高い。この「アマチュア・ナイト」はアマチュア・アーティストのタレント・コンテストのようなもので、もちろん真剣にキャリアを考えてそこに出場するものもいれば、遊び半分で楽しむだけでかえって行く人もいる。

 その「ショウタイム・アット・ジ・アポロ」は、毎週4-5人のシンガーやコメディアンなどが登場し、最後にそれを観客の拍手の多さでその週の勝者を一人決め、その人が翌週チャレンジャーの挑戦を受けるというスタイル。アポロの観客は、世界中で一番厳しいという評判だが、それは、よいものには大きな拍手を与えるが、よくないものに対しては、すぐにブーイングをすることから来ている。そこで、アマチュアはもとより、ちょっとしたプロの新人アーティストでさえも初めてアポロに出て、歌うときは緊張するという。

 そして、そのアポロに伝説の木の切り株がある。ステージの横においてある切り株は、それに触ってステージに出ると、心が落ち着き、自分の力を最大限に発揮し、いいリアクションを得られる、という言い伝えがあるもので、多くの有名、無名アーティストがその切り株に触ってからステージに上がるのである。

 彼も、その切り株に触ってステージに上った。まず、最初は「ブルックリンの学校の先生」という肩書きで登場。司会者との会話で、まだ学校の生徒たちは彼が歌うことを知らない、といっていた。そして、彼はビリー・ホリデイの持ち歌として知られる「ゴッド・ブレス・アワ・チャイルド」を歌った。これは彼の18番となり、ピーストンといえば、この「ゴッド・・・」という評判を得るが、それを歌って、最後にその日歌った全員が出てきて、司会者が「今日の勝者は・・・」といって、一人一人に観客の拍手を求める。すると最後のピーストンのところに来て、それまでのだれよりも大きな拍手と歓声が沸き起こるのである。また、別の週には彼は、ランディ・クロフォードの歌などで知られる「エブリシング・マスト・チェンジ」を歌うが、これもやはり大きな拍手喝采を集めたのである。

  ピーストンは、この「ショウ・タイム・・・」で6週間勝ち抜き、結局プロデューサーから最後にはもう翌週は来ないでくれ、といわれたという。つまり、彼が他のシンガーを余りに寄せ付けない圧倒的なうまさと迫力を見せ続けたからだ。

 彼のシンガーとしての力量の素晴らしさは既にこの時にはっきりしていた。もともと教会でゴスペルを歌っていただけあり、パワーと歌唱力があることはもちろんのこと、それだけでなく、彼の場合、様々な声色と声で遊ぶというテクニックを備えており、とても普通の新人とは思えないほど。基本的には同じニューヨーク出身のフレディ・ジャクソン、ルーサー・ヴァンドロス路線のシンガーといえるが、それに時として、アル・ジャロウ、スモーキー・ロビンソン、そしてハイ・ボイスゆえに今はなきシルベスターなどを思わせる。声だけで、そのシンガーといえる、最近では珍しい個性的な声の持ち主でもある。

 彼は影響を受けたシンガーとしてビリー・スチュアート、ゴスペル・シンガー、レンス・アレン、ルーサー、ダニー・ハザウエイ、アリサ・フランクリン、さらに彼の母、姉などを上げている。

 彼は結局、この「ショウ・タイム・・・」を機に87年12月、ゲフィン・レコードと契約。そして、88年9月からデトロイトでデビュー・アルバムの制作にはいった。プロデュースは「ショウ・タイム」のテレビを見てすぐに彼のことを気に入ってくれたマイケル・パウエルが、レコード会社が決まる前からかってでてくれた。彼はアニータ・ベイカーを育て上げた人物として知られている。

 こうして出来上がったのが、このアルバムというわけである。

■アルバム紹介

 デイビッド・ピーストンの名実ともにデビュー・アルバム。全米では89年6月発売。原盤番号はGEFFIN 24228。プロデュースはアニータ・ベイカーをてがけて有名になったマイケル・J・パウエル。
 基本的コンセプトは、歌のうまいデビッドのその魅力を最大限に引き出すことであり、さらにいい楽曲を選び抜いた作品になっている。彼とマイケルはこのアルバムを作るにあたって150曲以上の曲の中から厳選した、という。ロング・セラーとともにアメリカではゴールド・ディスクは確実だ。
 初めてのシングルは1.。踊りにも適したのりのある作品で、リミックスはGUYのテディ・ライリー。ビルボード・ブラック・チャート8月19日号で最高3位を記録。
 一方、このアルバムでの聞き所は何といいても彼のスロー・バラード群だ。まず、ビリー・ホリデイの持ち歌としても有名だが、彼の名を決定的にした2.「ゴッド・ブレス・アワ・チャイルド」。ダイアナ・ロスのバージョンもあるが、ジャズ的な雰囲気も残しながらかなり良質のブラック・コンテンポラリーに仕上げた。ライブで見せていた頃よりもはるかにうまくなっている。恐らく何度も歌い込んだのだろう。
 さらにこれに匹敵するほどの素晴らしいバラードが6.の「キャン・アイ」。一度ならず、聞くほどに味わいが出てくるバラードだ。さらにこのタイプでは3.、4.、8.、9.があり、どれも素晴らしい出来だ。
 また、どこかユーロビート風のアップテンポの7.も面白い。
 1.に続いてはもちろん2.、6.、3.、4.などまでどれもシングル・ヒット可能、しかもブラック部門だけでなくポップ部門でもヒット性充分だ。
 いずれにせよ、今年一番の新人シンガーであり、5年に一度の大シンガーの登場といっても大袈裟ではない。そして、このアルバムも充実度からして個人的にも年間のベスト5に入れられる。

 これでこのデイビッド・ピーストンの『イントロデューシング・デイビッド・ピーストン』のアルバムはもうおしまい。いかがでしたか。このCDがあなたのCDライブラリーにおいて愛聴盤となることを願って・・・

[SEPTEMBER 3、 1989: MASAHARU YOSHIOKA]
"AN EARLY BIRD NOTE"

■ 2作目 『ミックスド・エモーション』(1991年)

Mixed Emotions
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David Peaston
Mca (1991-10-15)
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OBITUARY>Peaston, David>March 13, 1957 – February 1, 2012, 54 year old