● エタ・ジェームス、73歳で死去~波乱万丈のソウル・サーチン人生 | 吉岡正晴のソウル・サーチン

吉岡正晴のソウル・サーチン

ソウルを日々サーチンしている人のために~Daily since 2002

● エタ・ジェームス、73歳で死去~波乱万丈のソウル・サーチン人生

【Etta James Dies At 73: The Roller Coaster Soul Searchin Life】

訃報。

1960年代から活躍し多くの女性シンガーに影響を与えたR&Bシンガー、エタ・ジェームスが2012年1月20日(金)朝カリフォルニア州リヴァーサイドの自宅近くの病院で家族らに看取られながら死去した。73歳。最近は白血病などいくつかの病気を患い、感染症も引き起こしていた。認知症、腎臓疾患もあった。ここ10年ほどは体重にも悩まされ、200ポンド(90キロ)近くを落とす手術も受けたという。

エタを見い出し育てた恩師、ジョニー・オーティスも1月17日(火)に90歳で死去。エタはまるでオーティスの後を追うように死去した。エタは41年間連れ添った夫アーティス・ミルズと二人の子供、多くの孫らによって送られる。

エタの死去は、全米メディアでもいち早く報道され、その関心の高さがうかがわれる。

http://www.chicagotribune.com/news/sns-ap-us-obit-etta-james,0,3158505.story

http://www.essence.com/2011/12/17/legendary-singer-etta-james-dies-at-age-73/

http://www.nytimes.com/2012/01/21/arts/music/etta-james-singer-dies-at-73.html?_r=1

■死去を報じるテレビ・ニューズ (0分42秒)
http://www.youtube.com/watch?v=EsBrsQe0Vmo

++++

● エタ・ジェームス~誰にも媚びない生き方

追悼。

こうした中で、エタの最新作のジャケット写真を撮影し、このところエタを間近で撮影していた写真家、アラン・マーサー氏のブログに、すばらしい写真と追悼文が掲載されている。

リンクはこちら。
http://amprofile.blogspot.com/2012/01/etta-james-tribute.html

ここでも触れられているが、エタはいわゆる「セレブの世界」には興味がない。自分の楽屋に有名人だからと人をいれることはない。

僕は1992年8月にエタが唯一の来日をしたときに、インタヴューする機会をえた。すでに何度もそのことは書いているが、一番印象的だったのは、頑固一徹で、何者・何物にも媚びないという姿勢だった。マーサー氏の楽屋に有名人をいれて、そこが社交場にはならない、という文章を読んで、まさにそうだろうな、と思った。

もうひとつ印象的だったのは、ホテルの部屋がそんなに明るくなく、けっこう暗かったこと。たぶん、素顔をあまり明るいところで見せたくなかったのだろう。しかし、言葉、ひじょうにストレートで、まさに歯に衣着せぬ物言い、という感じだった。

1989年以降、エタの再評価が始まるが、その後もインタヴューなどを読むと、ストレートに物事を言うのが気持ちよかった。その分、誤解されることも多かったかもしれない。ドラッグのために、自分の人生やキャリアがずたずたになっていることも十分承知している。

彼女は、ブルーズ、R&B、ゴスペル、なんでも歌うが、ジャズ、スタンダードも歌う。思った以上にヴァーサタイル(多様性のある)なシンガーだ。

今回の記事の中で、1992年のLAタイムズのコメントが印象深い。

“A lot of people think the blues is depressing,” she told The Los Angeles Times in 1992, “but that’s not the blues I’m singing. When I’m singing blues, I’m singing life. People that can’t stand to listen to the blues, they’ve got to be phonies.” (多くの人がブルーズは憂鬱で暗く意気消沈するものだと思っている。でも、私が歌うブルーズはそうじゃない。私が歌うブルーズとは、人生を歌うこと。ブルーズを聴くのが我慢できないという人は、まあ、偽者(phonies)ってことね)。

本当にストレート、直球だ。僕はふと、美空ひばりを思い浮かべた。エタ・ジェームスってひょっとしてアメリカの美空ひばりなのだろうか。

+++++

評伝。

エタ・ジェイムスは、1938年(昭和13年)1月25日、ロスアンジェルスに生まれた。本名はジェームセッタ・ホウキンスJamesetta Hawkins。母は未婚の14歳、母によれば父はアメリカでその名を轟かせていたビリヤード・プレイヤー、ミネソタ・ファッツだという。5歳の頃から歌のレッスンを受け、1950年には母とサン・フランシスコに移住、この地で友人たちとドゥー・ワップ・グループを結成した。母はいろいろな男性と関係を持ったが、そうした男は、エタに暴力を振るったりすることもあり、子供心にトラウマができた。

当初はゴスペルを歌っていたが、まもなく世俗音楽=ソウル、R&B、ブルーズを歌い始める。

1952年、バンド・リーダー、ジョニー・オーティスのオーディションで認められ、彼のプロデュースでハンク・バラードのヒット曲「ウォーク・ウィズ・ミー、アニー」のアンサー・ソング「ロール・ウィズ・ミー、ヘンリー」を録音、これはタイトルが、「ウォールフラワー」となり、エタ・ジェイムス&ピーチェス名義で1955年にヒット。R&Bチャートで堂々1位になった。この曲は白人のジョージア・ギブスがカヴァーし、再びヒットさせる。エタの芸名は、このジョニーのアイデアで、本名(ジェームス・エッタ)をひっくり返して短くした。

エタはグループのピーチェスとは別れその後ソロで活動。1960年、シカゴのチェス・レコードと契約。同レーベルの傘下アーゴ、あるいはキャデット・レコードからシングル、アルバムを出すようになる。以後、エタは「グッド・ロッキン・ダディー」(1955年=R&Bで6位)、「オール・アイ・クド・ドゥー・ワォズ・クライ」(1960年=R&B2位)、「アット・ラスト」(1961年=R&B2位)、「テル・ママ」(1967年=R&B10位)などのヒットを出す。一時期、マーヴィン・ゲイの育ての親、ドゥー・ワップ・グループ、ムーングロウズの低音のシンガー、ハーヴィー・フークワとデュエットを組み、ヒットも生みだした。ハーヴィーとは一時期つきあっていた。

この頃のソウルフルな歌唱は他の多くのシンガーに影響を与えたが、中でも、ジャニス・ジョプリンはエタから大いにインスピレーションを受け、白人版エタ・ジェイムスとまで言われた。

しかし、エタは1960年代中期からヘロイン中毒、アルコール中毒になり、その間、コンサートに穴をあけたりしてなかなか成功できなかった。それでも1974年頃までに、中毒から脱出、しかしまた中毒と、ドラッグ渦とのリヴォルヴィング・ドアを行き来した。エタ自身、ドラッグが自分のキャリアをつぶした要因だということを認めていた。

エタがドラッグにはまってしまった理由のひとつとして、彼女自身は、あこがれていたビリー・ホリデイがヘロインなどをやっていたことをあげている。「あの歌の素晴らしさは、ドラッグでハイになっているからだと、当時は考えてしまった」

ジャニス。

ジャニス・ジョプリンは無名時代、エタにあこがれエタのようになりたくて、彼女の元を訪れ「どうやったらあなたのようにソウルを歌えるようになるのでしょうか」と尋ねる。そこでエタの前で歌うが、エタは「もっと魂を込めてソウルを歌わないとだめ」と言いジャニスは失意のどん底に落ちる。しかし、ジャニスは努力を続け、デビュー。その数年後、ジャニスとエタが再会するとエタは「(遂に)あなたはソウルを知ったわね」と言ったという。

一方、自伝を共同執筆したデイヴィッド・リッツによれば、「エタがもっとも影響を受けたのは、(ブルーズ・シンガーの)ジョニー・ギター・ワトソンだ」と言う。エタは1960年代初期からジョニーのオープニング・アクトなどを務めていた。

エタは、自分がヒットを出し、有名になってから、一度も会ったことがない父親と会うことになるが、その席で父親は「覚えてないんだ。本当に覚えてないんだ」と語ったという。「ミネソタ・ファッツ」に関しては、映画になっているが、これはエタにとっては相当複雑な心境だっただろう。

1978年、チェスからワーナーへ移籍。またこの年、エタはローリング・ストーンズのオープニング・アクトを務めた。その後、1989年、エタはアイランド・レコードへ移籍、『セヴン・イヤー・ビッチ』のアルバムをリリース。その後1992年、エレクトラに移籍、同年8月、ジャズ・フェスの出演アーティストの一人として初来日公演を行っている。その後、1993年プライヴェート・ミュージック・レーベルへ移籍、現在に至っている。プライヴェート・ミュージックからのアルバム『ビリー・ホリデイ・トリビュート』アルバムは、グラミー賞ジャズ部門でノミネート。また1993年、「ロックン・ロール殿堂」入り。

最近では、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルや、モントレー・ジャズ・フェスティヴァルなど多くのフェスティヴァルに参加。

そして、2008年12月、エタをモデルにした役をビヨンセが演じた映画『キャデラック・レコード』によって、再び脚光を浴びることになった。この流れで、2009年1月、アメリカ初の黒人大統領オバマの就任パーティーで「アット・ラスト」が歌われたが、これを歌ったのは、エタではなくビヨンセだった。エタは『キャデラック・レコード』を演じたビヨンセは評価していたが、大統領就任パーティーで歌えなかったことにはショックを受け、自分が歌いたかった、と語っている。エタは、ビヨンセが「アット・ラスト」を歌った直後、「もう、ビヨンセにはがまんできない。彼女があの曲を歌う理由なんてない、勝手に歌わないでよ」とコメント。後に、これはジョークだったと弁解、しかし、そのパーティーに招待されなかったことに傷ついたと語った。

14歳の母親から里親の元へ。不明の父。ゴスペルから世俗へ。ドラッグ中毒。短気のかんしゃく。激しい気性からの周囲との衝突。刑務所入り。レコード会社とのトラブル。様々な訴訟。エタの人生は、ローラー・コースターのように激しくアップ・ダウンを続けたソウル・サーチンの連続だった。

ジョニー・オーティス、ジョニー・ギター・ワトソンからエタへ。エタからジャニスへ、そして、ジョス・ストーンへ。エタのスピリットは、次々と新しい世代に受け継がれている。

彼女が正しく評価されだすのは、1989年以降。これ以降、音楽業界で受賞したアワードは30を超える。グラミー賞6つ、ロックン・ロール殿堂、ブルーズ・ファンデーション・アワードなど多数。

エタ・ジェームスは、デイヴィッド・リッツとともに自伝『レイジ・トゥ・サーヴァイヴ』を発表している。エタ・ジェームスは、ゴスペル、ソウル、R&B、ブルーズ、ジャズなども歌うブラック・ミュージック史上に残る重要な女性シンガーである。

恩師ジョニー・オーティスが旅立って3日後に、エタは後を追った。天国で思い出話に花を咲かせることだろう。

■ DVD『キャデラック・レコード』(廉価版がありました!) かなりフィクションもありますが、一応、全体的な流れはこんな感じということで。

キャデラック・レコード コレクターズ・エディション [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント (2010-08-25)
売り上げランキング: 1936


ブルーレイでも1600円強

キャデラック・レコード [Blu-ray]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント (2010-08-25)
売り上げランキング: 34667


■エタ・ジェームス自伝 デイヴィッド・リッツ/エタ・ジェームス著 (英語)

Rage To Survive: The Etta James Story
David Ritz Etta James
DaCapo Press
売り上げランキング: 353269


■ エタ・ジェームス最新作 『ドリーマー』(輸入盤)

Dreamer
Dreamer
posted with amazlet at 12.01.21
Etta James
Verve Forecast (2011-11-08)
売り上げランキング: 4300


■ 『グレイテスト・アメリカン・ソングブック』「アット・ラスト」収録。エタのスタンダード曲集。2009年8月日本発売。日本盤ライナーノーツ・吉岡正晴

グレイテスト・アメリカン・ソングブック
エタ・ジェイムス
BMG JAPAN Inc. (2009-08-26)
売り上げランキング: 14096


■ エタ・ジェームス アット・ラスト

http://youtu.be/ADDigK8LwyE



■ アイド・ラーザー・ゴー・ブラインド

http://youtu.be/YApNirMC9gM



■ オール・アイ・クド・ドゥ・ワズ・クライ

http://youtu.be/0_i-AI61PEo



OBITUARY>James, Etta (January 25, 1938 – January 20, 2012, 73-year old)