■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート3) | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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■ JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート3)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 3】

TSOP。

昨日(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

番組ホームページ。
http://www2.jfn.co.jp/big/
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
番組ツイッター
https://twitter.com/#!/bigsp_staff
ハッシュ・タグ
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
関東地区のラジコ。http://bit.ly/tRLmkk 
なお、これは関東地区のラジコで全国のラジコは、各地の放送局のホームページなどでご確認ください。

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

■ ギャンブル&ハフ・ストーリー

ACT 1 二人の出会い

出会い。

今日、第二日目は、フィラデルフィア・サウンドのビッグ・スリーのうち、トム・ベルと並ぶケニー・ギャンブルとレオン・ハフ・ストーリーです。ちなみにもうひとりは、昨日ご紹介したトム・ベルです。

ケニー・ギャンブルは、1943年8月11日、フィラデルフィア生まれ。レオン・ハフは1942年4月8日フィラデルフィア生まれ。それぞれ68歳、69歳。

ふたりで「ギャンブル&ハフ」として知られるプロデューサー、ソングライター・コンビです。特に1960年代後期から1970年代にかけて、たくさんのヒット曲を生みだし、フィラデルフィア・サウンド、フィラデルフィア・ソウル、フィリー・ソウルの隆盛の大原動力となったチームです。

ケニー・ギャンブルは子供の頃から音楽の世界で何かをやろうと思い、地元のソウル・ラジオ局WDASに出入りし、当地の人気DJジョージ・ウッズやジミー・ビショップらにコーヒーを運んだりしていました。歌も好きで、ゲームセンターにある簡易録音マシンで、アセテート盤を作ったりしていました。今でいうカラオケで録音して、それをCDに焼くようなものです。レコード店でバイトもしたりしていました。

ギャンブルが17歳のとき、1960年頃、地元のジェリー・ロスというマネージャーがギャンブルの面倒をみるようになり、しばらく手を組んで仕事をするようになります。この頃、彼らは「ギャンブル&ロス」というわけでした。

一方、この頃、レオン・ハフはフィラデルフィアのシューベルト劇場にオフィースを構えます。すると偶然にもケニーも同じビルにオフィースを構えていたのです。ケニーは6階、レオンは2階でした。彼らはお互いエレヴェーターなどですれ違って顔は知っていましたが、何をする人物かは知りませんでした。

そんな中、彼らはとあるレコーディング・セッションで偶然顔をあわせるのです。

それが、地元のキャンディー&ザ・キッセスというグループの「ザ・81(The 81)」という曲のレコーディングで、1964年のことでした。

一方ジェリー・ロスは、一足先に、1963年、ギャンブルをソロ・シンガーとしてコロンビア・レコードに売り込むことに成功「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ユー・ガット・アンティル・ユー・ルーズ(You Don't Know What You Got Until You Lose It)」という曲をレコーディング。

ケニー・ギャンブルはほかにも「エイント・イット・ベイビー(パート1)Ain't It Baby, Pt. 1」 (Arctic 114)という曲もフィラデルフィアのインディ・レーベル、アークティックにレコーディングしています。1965年のことです。

そして、彼らはロメオズというグループとしても活動。このロメオズには、トム・ベルやローランド・チェンバーズ(ギター)、レオン・ハフも在籍していました。レオン・ハフとギャンブルは、二人とも曲を書くことに大変興味があり、一緒に曲作りをするようになります。二人が初めて曲作りをしたときに、一気に10曲ほど書いたというほどです。

ギャンブルとハフ、そして、ジェリー・ロスの3人は、"I'm Gonna Make You Love Me"を共作、これは、ディー・ディー・ワーウィック(ディオンヌ・ワーウィックの妹)によってレコーディングされ、1966年12月からシングルヒットします。そして、この曲はその2年後、1968年12月からダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス&ザ・テンプテーションズによって、リメイクされ、ソウル・チャートで2位まで行く大ヒットを記録。ソングライターとしての名声を高めていきます。

ACT 2 レオン・ハフ~クラシック・ピアノを学んで

スタジオ。

少しレオン・ハフのキャリアを振り返りましょう。レオンは前述のように1942年生まれ。ギャンブルより1歳年上です。

レオン・ハフは、クラシック・ピアノを習い、ピアノをマスター。ハイスクール卒業後は、地元のクラブなどでプレイするようになりますが、フィラデルフィアだけでは飽き足らず、グレイハウンドのバスにのって、しばしばニューヨークまで足をのばし、ニューヨークのスタジオで仕事をするようになります。クラシック・ピアノからスタートしているところが、トム・ベルと同じです。

ニューヨークの有名な音楽ビル、ブリル・ビルディング(たくさんの音楽出版社が入っていたビル。多くのソングライターたちがここから育っていった)に通い、リーバー&ストーラー、フィル・スペクターらと知り合い、彼らのレコーディング・セッションでピアノを弾くようになります。この頃、レオンが一緒に仕事をしたのは、ジェフ・バリー、エリー・グリーンウィッチ、キャロル・キングなどそうそうたるメンバーでした。フィル・スペクターがプロデュースしたロネッツのクリスマス・アルバムやヒット曲「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」で、レオンはピアノを弾いているそうです。ほかにもアドリブスの「ボー・フロム・ニューヨーク・シティ」のピアノもレオンです。

この頃からレオン・ハフも曲を書くようになります。彼にとっての初のメジャーヒットは、パティー&ジ・エンブレムスの「ミックスド・アップ、シュック・アップ・ガール(Mixed Up, Shook Up Girl)」 [Herald 590]でした。

ニューヨークでの仕事も精力的にこなしながらも、地元フィラデルフィアでもセッションやライヴ・ハウスでプレイし、レオンの名は東海岸一帯で知られる存在となっていきました。

ACT 3 「エクセル」「ギャンブル」レーベル設立

レーベル設立。

そんなレオンとギャンブルは、前述のように意気投合。ただソングライター、プロデューサー、一ミュージシャンとしてだけでなく、小さくともレコード会社を作って運営し、ヒットを出そうと考えます。これは、かつて、モータウンを始めたベリー・ゴーディーも同様でした。

こうして、ギャンブル&ハフは1965年には、フィラデルフィアで「エクセル・レコード」をスタート。まもなく、このレーベルはその名前を「ギャンブル・レコード」に変更。1966年には、フィラデルフィアのソウル・グループ、イントゥルーダーズの「ウイル・ビー・ユナイテッド」が初ヒットに輝きます。彼らはこれと並行して、外部アーティストのプロデュースもてがけ、1967年には、ソウル・サヴァイヴァーズの「エクスプレス・ウェイ・トゥ・ユア・ハート」のヒットを生み出します。

ヒットが出ている間はよいのですが、ちょっとヒットが出なくなると苦しくなるのが、インディ・レーベルの宿命。彼らはインディペンデント・レーベルとしての限界も感じながら、ソングライター/プロデューサー・チームとしても発展していくことを考え、アトランティックやマーキュリーといったメジャー・レコード会社に売り込み、アトランティック・レコードで、アーチー・ベル&ザ・ドレルス、ウィルソン・ピケット、ダスティ・スプリングフィールドなど、マーキュリーでジェリー・バトラーなど多くのアーティストをプロデュースします。それまでインプレッションズのメンバーからソロに転じ、「フォー・ユア・プレシャス・ラヴ」が50年代にヒットしてからしばらくヒットとご無沙汰だったジェリー・バトラーは1967年、「オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ」で見事にカンバック。ソロ・シンガーとしてその寿命を延ばします。

ギャンブル・レコードからは1968年3月、イントゥルーダーズの放った「カウボーイズ・トゥ・ガールズ」が初のミリオン・セラーとなり、プロデューサーとしても、レコード会社としても成功するようになりました。このレーベルでは、他にビリー・ポール、白人のジャガーズなどを出しますが、いずれもヒットには至りません。ジャガーズはその後レーベルを移籍して、1970年に「ザ・ラッパー」のヒットを出します。

1969年、彼らは別のレーベル、ネプチューンを立ち上げ、オージェイズと契約、これはチェス・レコードによって配給されますが、ここでもそれほどの大きな成功は得ていません。しいていえば、オージェイズの「ワン・ナイト・アフェア」「ルーキー・ルーキー」といった作品が小ヒットを記録した程度でした。

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ACT 4 CBSからの誘い~フィラデルフィア・インターナショナル誕生

チャンス。

そんな彼らにさらなる大きなチャンスがやってきました。1971年、当時のCBSコロンビア・レコードの制作ディレクターだったクライヴ・デイヴィスが、資金を提供するのでCBSの元でレーベルを作り、作品をどんどん作ってくれといってきたのです。

それまでは、一インディ・レーベルを運営していたプロデューサーだった彼らでしたが、大きな予算を得て、いい作品を作ることに専念することができるようなりました。しかも、インディ・レーベルとして苦労してきたレコードの発送、集金などの雑事一般から解放され、クリエイティヴに没頭できるのは大きな意味を持っていました。

彼らはフィラデルフィアにジョー・ターシャというエンジニアが作り上げた「シグマ・サウンド・スタジオ」で、次々とレコーディング。ここから、ヒットが生まれるようになって、この「シグマ・サウンド・スタジオ」はフィラデルフィア・サウンドのメッカとなっていきます。

ギャンブル&ハフの夢を乗せたフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは1971年4月、ギデオン・スミスというシンガーの「アーカンソー・ライフ/ホエン・トゥ・ワールズ・キャン・セクセスフリー・コリド(Arkansas Life" / "When Two Worlds Can Successfully Collide)」(PIR 3501)、さらに、ジョニー・ウィリアムスの「イッツ・ソー・ワンダフル/ラヴ・ドント・ラブ・オフ(It's So Wonderful" / "Love Don't Rub Off)」(PIR 3502)を出しますが、これらはヒットせず、3枚目のシングルでやったヒットが出ます。それが、エボニーズの「ユーアー・ザ・リーズン・ホワイ (You’re The Reason Why)」でした。これは5月からソウル・チャート入りし、トップ10を記録。彼らは女性一人のリードと3人の男性グループで、いわば、グラディス・ナイト&ザ・ピップスと同じ編成で、フィラデルフィア版グラディス・ナイト&ザ・ピップスを狙っていました。

Act 5 ミリオン・セラー続出。

現象。

そして、同年7月にリリースされた17枚目のシングルで遂にフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは初めてのミリオン・セラーを生み出します。それが、長年、プロデュースしてきたオージェイズの「バックスタバーズ」でした。

さらに、10月にはハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(邦題、二人の絆)」、ビリー・ポールの「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ」と連続でミリオン・セラーが誕生。「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア」とギャンブル&ハフ、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードが一挙に注目を集めるようになりました。

以後もギャンブル&ハフは、オージェイズ、スリー・ディグリーズ、イントゥルーダーズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツなど多くのアーティストを世に送り出し、次々とヒットを出していきます。

1971年の設立から3年もしないうちに、ギャンブル&ハフのフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは、全米で第二位の黒人所有の会社となったのです。もちろん、このランクの1位は長くモータウン・レコードです。

■ フィリー・ソウル、ひじょうに便利な4枚組。初期から中期にかけてのフィリー・ソウル・ヒットをかなり網羅。今回もたくさんお世話になっています

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ACT 6 MFSB~フィラデルフィアのミュージシャンの集合体

集合体。

これらすべてのヒットのバック演奏をしているのが、シグマ・サウンド・スタジオを本拠とする地元のミュージシャンたちでした。ギャンブル&ハフは彼らを実にうまく起用し、独特のサウンドを作り上げることに成功しました。

これらのミュージシャンは多くのセッションで顔をあわせます。初期のだいたいのメンバーは、ドラムス、アール・ヤング、ベースにロニー・ベイカー、ギターにローランド・チェンバーズ、ノーマン・ハリス、ボビー・イーライ、パーカッションにラリー・ワシントン、ヴァイブにヴィンセント・モンタナ、キーボードにレオン・ハフ、ロン・カーシー、レニー・パクーラ。そして、ストリングスがドン・レナルドの指揮といったメンバーでした。

アレンジャーはボビー・マーティン、ジョン・カック・フェイス、デクスター・ワンゼル、バニー・シグラー、ミュージシャンでもあるノーマン・ハリス、レニー・パクーラもアレンジもやりました。このうちのベースのロン・ベイカー、ギターのノーマン・ハリス、ドラムスのアール・ヤングは、「ベイカー・ハリス・ヤング」というトリオで、プロデュース活動も始めます。ちょうど、フィラデルフィアがモデルとしたモータウン・レコードのヒット曲製造工場における人気プロデューサー・チーム、「ホランド・ドジャー・ホランド」的な存在になっていきます。

モータウンも何人かのすぐれたミュージシャンが、スタジオのハウス・バンドとなり、モータウンの多数のシンガーたちのバックをつけ、独特のサウンドを作り出しました。彼らは後に「ファンク・ブラザース」となり、脚光を浴びることになりますが、このフィラデルフィアのミュージシャンの集合体は、ギャンブル&ハフが「MFSB」と名付けました。

この「MFSB」は、「マザー・ファーザー・シスター・ブラザー(母・父・姉妹・兄弟)」の略です。そして彼らはフィラデルフィア・インターナショナルのアーティストだけでなく、シグマ・サウンド・スタジオにやってくる多くのソウル・シンガー、アーティストたちのバックもつけるようになり、フィラデルフィア・サウンドは一挙に世界中に広がっていきます。

そして、このMFSBは、1974年、ヴォーカルにスリー・ディグリーズを従え「TSOP」というヒットを生み出します。「TSOP」は、「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア」の略。この曲は人気テレビ番組『ソウル・トレイン』のテーマ曲として作られ、見事に大ヒットしました。テレビ番組も人気を獲得、このテーマも毎週番組でかかることから大ヒットしました。

ギャンブル&ハフはその成功を元に、フィラデルフィア・インターの傘下に、1974年「TSOPレコード」、1975年にベイカー・ハリス・ヤングたちが作った「ゴールデン・フリース・レコード」、さらにトム・ベルが設立した「サウンダー・レコード」を配し、一大フィラデルフィア・サウンド・ブームを作り上げていきます。

■ MFSB

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ACT 7 新しい世代が登場し、徐々に変化するサウンド

変化。

そんなフィリー・ソウルを特色付けていたのが、華麗なストリングスを含むオーケストラとともに、フィリー・ソウル初期から作られていたドラマー、アール・ヤングが生み出したハイファットがパシャパシャなる独特のサウンドです。これは、当時大きな現象となってきていたディスコティックで大いにプレイされ人気となりました。ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「ザ・ラヴ・アイ・ロスト」などその典型的なサウンドで、ディスコでも大いに受けました。そして、これらのサウンドは、後の「ハウス・ミュージック」の原型ともなりました。

ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツからはリード・シンガーのテディー・ペンダーグラスが1977年ソロに転じ、さらにビッグスターに。オージェイズは軽いタッチのサウンドで「シー・ユースタ・ビー・マイ・ガール」のヒットを生み出し、デクスター・ワンゼル、マクファーデン&ホワイトヘッド、ジーン・カーン、ジョーンズ・ガールズといった新人たちが登場してきます。

70年代中期から後期になると、徐々に新しいフィリーのミュージシャンたちが育ってきて、サウンドも少しずつ変化を見せ始めます。

しかし、1980年代中期になると、なかなかヒットが出なくなり、1986年にはフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルはその配給元をCBSからEMI・マンハッタンに変更。その後、1991年BMGに変わり、現在に至っています。

ACT 8 メッセージ、主張、活動

メッセージ。

ギャンブル&ハフ・サウンドの特徴は、トム・ベル同様、リッチなストリングス、ブラス・セクションを従えた壮大なオーケストラ・サウンドです。そして、歌詞の面で、黒人であることを強く意識した社会性のあるメッセージが強い作品が多いことも特徴です。

オージェイズの大ヒット「ラヴ・トレイン」や、アルバム『シップ・アホイ』、ビリー・ポールの「アム・アイ・ブラック・イナフ・フォー・ユー」などは、そうしたメッセージ性のよく出た作品です。前者は普遍の愛が世界中に必要だと歌い、アルバム『シップ・アホイ』はかつて黒人が連れてこられた奴隷船をテーマにしています。

ギャンブル&ハフのアルバムには、必ずジャケットに「There’s a message in the music」という文句が書かれています。これは、音楽の中にはメッセージがある、という彼らの主張を端的に表わしています。

ギャンブルは黒人解放運動や、人権運動、チャリティーなどにも積極的に参加しています。そうした社会活動のなかでは、1977年、彼らが全社をあげて行った「クリーン・アップ・ゲットー」キャンペーンがあります。これはその名の通り、汚れたゲットーを掃除して綺麗にしよう、壊れて放置されたままの建物などを直し、みんなできちんと仕事ができるようにしよう、というキャンペーンで、そのテーマ曲をフィラデルフィア・インターのオールスターたちが歌いました。若者はゴミを拾い、グラフィティーで落書きされた壁を綺麗にし、散らかった道を掃除したのです。当初フィラデルフィアで始まったこの運動は、徐々にシカゴ、ロスアンジェルス、メンフィスなど全米に広がりました。これは、ひとつにはケニー・ギャンブルの生まれ育ったサウス・フィラデルフィアはゲットーでいつも街が汚れていたので、ここを綺麗にし、街自体をリノヴェーションしようというケニー自身の夢でもありました。

1990年、彼らはそれまでに何度もノミネートはされてきたものの、獲得できなかったグラミーを獲得。これはシンプリー・レッドがブルーノーツの曲をカヴァーし、その「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」が「ベストR&Bソング」を獲得したものです。彼らはこれまでに3000曲以上の作品を世に送り出したといいます。

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(明日は、ギャンブル&ハフの周辺のアレンジャー、ミュージシャン、プロデューサー、また、ユニークなサルソウル・レーベルなどを紹介します)

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