■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル』(パート2) | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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■ JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル』(パート2)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 2】

TSOP。

■ トム・ベル・ストーリー

今日(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りする深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。4日間たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

月曜深夜、火曜朝、第一日目は、フィリー・ソウルの立役者ビッグ・スリーの一人、トム・ベルです。

ACT 1 トム・ベル登場

ジャマイカ。

フィラデルフィア・サウンドを隆盛に導いた3人というと、このトム・ベル、そして、ギャンブル&ハフですが、彼ら3人は60年代から手を組み、さまざまな作品を送り出しています。彼らは3人で「マイティー・スリー」という音楽出版社も持っているほどです。文字通り、強力な3人です。彼ら周辺で制作された「フィラデルフィア・サウンド」の楽曲は3000曲以上あるといわれます。確かに1960年代中期から1980年代中期までの20年間、毎日1曲でも録音されていれば、それくらいの数はいともかんたんにクリアします。

さて、トム・ベルを有名にしたのは、1968年のデルフォニックスの大ヒット「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」です。トム・ベルはこのとき25歳でした。

トム・ベルは、フィリー・ソウルの申し子ですが、生まれたのは1943年(昭和18年)1月26日ジャマイカ・キングストンでした。本名、トーマス・ランドルフ・ベル。現在68歳ということになります。ただ幼少の頃、5歳で両親とともにフィラデルフィアに移り住み、フィラデルフィア育ちと言っていいでしょう。家が裕福だったため、クラシック音楽を勉強、5歳の頃からピアノを習っていました。その頃はクラシックのピアニストか、指揮者を夢見ていました。しかし、まもなく、当時はまだ人種差別が根強く、いから優秀でも黒人が指揮者になることはできませんでした。そこでトム・ベルはクラシックの道は諦めようと考え始めます。

十代の頃にほぼ同年代のケニー・ギャンブル、レオン・ハフ、ダリル・ホールらと知り合い、1959年には、ギャンブルがやっていたソウル・ヴォーカル・グループ、ザ・ロメオスに参加。トム・ベルは音楽的に多感なティーンの16歳でした。このあたりから、興味はクラシックからポピュラーなソウル・ミュージックに移っていきました。

地元でバンド活動をするうちに、ピアノも弾け、楽譜も書けたことから、トム・ベル19歳の1962年には当地の人気アーティスト、チャビー・チェッカーのバンドの音楽ディレクターのような仕事をするようになります。

チャビー・チェッカーは、1941年10月3日、地図で言えばフィラデルフィアより少し下のサウス・キャロライナ州アンドリュース生まれ、フィラデルフィア育ちのR&Bシンガーで、1960年に「ザ・ツイスト」が全米ナンバーワン(ポップ・チャート)になる大ヒットを出し、一躍スターになっていたシンガーです。当時の流行のお尻を振る「ツイスト」というダンスをテーマにした曲で、踊りとともに大ヒットしました。この「ツイスト」を出していたのが、フィラデルフィアの同時はまだ一インディ・レーベルだったキャメオ/パークウェイ・レコードでした。

この大ヒットが出て、チャビーが全米ツアーにでることになり、そのバンドのまとめ役としてトム・ベルが抜擢されたわけです。チャビーのバンドには約2年在籍、その間、音楽を勉強するために一時期ニューヨークにいたこともありました。1963年にフィラデルフィアに戻り、同地を本拠にレコードを出していたキャメオ/パークウェイで、セッション・ピアニストとして稼ぐようになります。

セッション・ピアニストとは、スタジオでレコーディングがある場合、プロデューサーやソングライターに呼ばれて、その曲のレコーディングでピアノを弾く専門家です。キャメオ/パークウェイではたくさんのレコーディング・セッションがあったので、トム・ベルも売れっ子ピアニストになっていきました。トム・ベルは、ただピアノを弾くだけでなく、アレンジもできたため、レコーディング・シーンでは大変重宝され、音楽シーンでも徐々に知られるようになります。

ACT 2 改名させられたデルフォニックス

改名。

この頃、トム・ベルは当時まだザ・ファイヴ・ガイズ(The Five Guys)と名乗っていたヴォーカル・グループと知り合います。彼はこの5人組を3人組にし、名前を変えるよう提案、このトリオはデルフォニックスとなります。

1967年、デルフォニックスのマネージャーだったスタン・ワトソンという人物が、サム・ベルという人物とインディ・レーベル、フィリー・グルーヴを設立。デルフォニックスのレコードをそこから出すことにし、トム・ベルはこのレーベルの制作、A&R、プロデューサーとなりました。もっとも当時はまだA&Rなどという言葉もなく、プロデューサーという言葉でさえもまだまだ浸透はしていなかった時代です。

そして、彼らが1968年2月から「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」という曲をヒットさせます。これが、トム・ベルにとって、そして、デルフォニックスにとっても記念すべき初めての大ヒットとなりました。リッチなオーケストレーション、覚え易いメロディーとサビ。ファルセットのリード・ヴォーカルが大いに受けることになりました。

デルフォニックスとはその後も多くのヒットを生み出します。中でも、1970年1月からヒットした「ディドント・アイ(ブロウ・ユア・マインド)」は、ソウル・チャートで3位ながら、ゴールド・ディスクを獲得。グラミー賞「R&Bヴォーカル・グループ」部門も獲得するという快挙を成し遂げます。

しかし、このグラミー賞授賞式でひと悶着(ひともんちゃく)起こります。当時まだ黒人は、たとえ賞を獲得しても、ステージで受賞することが許されなかったということで、トム・ベルは以来、いかにグラミー賞にノミネートされても、決してその授賞式には顔を出さなかったそうです。ちなみに、トム・ベルは1974年度でグラミー賞が初めて「プロデューサー・オブ・ジ・イヤー」部門を設定しますが、その初回さらに翌年と2年連続で見事に受賞しています。もちろん、授賞式には顔をだしていません。

ちなみに、これらの「ラ・ラ・」や、「ディドント・アイ」はその後も映画などに使われ、すっかりスタンダード化。特に「ディドント・アイ」は、クエンティン・タランティーノの映画『ジャッキー・ブラウン』(1997年)で効果的に使用されていました。

ACT 3 スタイリスティックス登場

第二弾。

トム・ベルがデルフォニックスに続いててがけたのが、やはりフィラデルフィアのソウル・ヴォーカル・グループ、スタイリスティックスでした。

当初、スタイリスティックスは地元のインディ・レーベルでシングル盤「ユー・アー・ビッグ・ガール・ナウ」をリリースしていましたが、地元でヒットし始めたところを、当時のアヴコ・レコードがその権利を買い取り、トム・ベルをプロデューサーとして抜擢し、トム・ベルにスタイリスティックスをプロデュースさせたのです。

そうして出来上がったのが、「ユー・アー・エヴリシング」や「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」などでした。

ちょうどこの頃、トム・ベルは作詞家のリンダ・クリードと知り合い、トムがメロディーとトラックを作り、リンダが作詞をするという作詞・作曲家チームとして活動するようになりました。スタイリスティックスのデビュー作『スタリスティックス』でも、トム・ベル&リンダ・クリードの作品が多数占められています。

リンダ・クリードについては、のちほど、ご紹介しましょう。

トム・ベルは、スタイリスティックスのアルバムを3枚連続でプロデュースしますが、この頃から、超売れっ子のプロデューサーとなり、多くのアーティストからプロデュース依頼が殺到するようになります。

スタイリスティックスのプロデュースをしつつも、トム・ベルはまた別のソウル・ヴォーカル・グループ、スピナーズをてがけます。1972年、アトランティック・レーベルに移籍してきたデトロイトのスピナーズです。

スピナーズは、デトロイトのヴォーカル・グループで、モータウンでちょっとしたヒットを放っていましたが、モータウンの他のアーティストほどの大ヒットはだしていませんでした。会社の力がテンプテーションズや、シュープリームスに向けられていて、なかなかスピナーズまでプロモーションしてもらえなかったからです。そんな彼らに手を差し伸べたのが、アトランティック・レコードでした。彼らはアトランティックに移籍し、その第一弾アルバムのプロデュースに、当時スタイリスティックスで飛ぶ鳥をも落とす勢いになり始めていたトム・ベルを抜擢します。

トム・ベル・プロデュースのスピナーズの「アイル・ビー・アラウンド」は、72年9月から大ヒットし、ソウル・チャートで1位、ポップ・チャートでも最高3位を記録。100万枚を売るゴールド・シングルになりました。これ以後トム・ベル&スピナーズのコンビは数年にわたり、10数曲の大ヒットを生み出します。

ACT 4 リッチなオーケストラ・サウンド

リッチ。

トム・ベルといえば、デルフォニックス、スタイリスティックス、スピナーズということになりますが、そのほかにもいくつかシンガーをてがけています。

たとえば、ジョニー・マティス、ビージーズもてがけました。1980年代に入ってから、モーリス・ホワイトの元でヒットを出しスターになっていた歌姫、デニース・ウィリアムス、フィラデルフィア育ちのシンガー、フィリス・ハイマン、そして、クインシーの秘蔵っ子だったジェームス・イングラムなどです。また、イギリスのエルトン・ジョンに請われて、エルトンの作品もプロデュースしました。

トム・ベルは、70年代後期から喧騒のフィラデルフィアを離れ、本拠をワシントン州シアトルにしています。イチロー選手がいるシアトル・マリナーズでおなじみのシアトルです。ハワイにも家があるようです。現在は8人の子供がいて、どうやら大都会には住みたくないようです。

トム・ベルが作り出すサウンドの最大の特徴は、美しいメロディーに流麗なストリングスが入ったリッチなオーケストラのアレンジがなされていることです。このリッチなオーケストレーションによって、美しいメロディーがひときわ輝くを増すことになります。これは彼がクラシック音楽を勉強した経験が役に立っているのでしょう。

そして、リンダ・クリードが作り出すブラックの生活に根付いた歌詞、女性の視点ならではのインテリジェンスとストリート感覚にあふれた詞が、多くの黒人たちの支持を集める大きな要因となりました。

トム・ベルのプロデュース作品は、70年代の作品であるにもかかわらず、21世紀の今でも、さかんにカヴァーされ、歌われ続けています。

+++++

ACT 5 リンダ・クリード・ストーリー

作詞家。

フィリー・ソウルの立役者となったプロデューサー、トム・ベルと手を組み、数多くの作詞をてがけたリンダ・クリードは、1949年12月6日、フィラデルフィアに生まれました。トム・ベルより6歳年下ということになります。

十代の頃から書くことが好きだったリンダは、よくノートに詩を書いていました。ソングライターとして、曲を書いたり、ローカル・バンドに参加したり、音楽活動を続けていました。ハイスクール卒業後、彼女は成功を求めてニューヨークに出ますが、なかなかチャンスは巡ってきませんでした。8ヶ月ほど、かの地でがんばりましたが、きっかけをつかめず、故郷フィラデルフィアに戻ります。このときの心境を描いたのが、後にジョニー・マティスなどによってレコーディングされる「アイム・カミング・ホーム」(うちに帰るわ)です。

フィラデルフィアでも音楽活動は続けましたが、ギャンブル&ハフ、トム・ベルが設立した出版社『マイティー・スリー・ミュージック』に出入りするようになり、そのスタッフであるギャンブル&ハフ、トム・ベルらと知り合い、トム・ベルはリンダの作詞の才能を買い、一緒に曲を書くようになります。

トム・ベルとリンダ・クリードが初めて手を組んだ曲は、1970年4月にシングルがリリースされた「アイ・ウォナ・ビー・ア・フリー・ガール」という曲でしたが、これを機に、彼らは数多くの作品を共作していくようになります。

そして、1970年暮れからは、トム・ベルがスタイリスティックスのプロジェクトを始めることになり、それにともないスタイリスティックスのための楽曲を共作するようになります。

1972年にリリースされるスタイリスティックスのデビュー・アルバムでは1曲、トム・ベルがてがける以前にレコーディングされた曲以外、すべてトム・ベル&リンダ・クリードによって書かれています。

ここに収められた「ストップ・ルック・リッスン」「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」「ユー・アー・エヴリシング」「ピープル・メイク・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド」などでリンダはヴィヴィッドにブラックの世界を描いています。

たとえば、普遍的なラヴ・ソングだけでなく、ブラック・ストリートを見据えた作品、たとえば、「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」や「ゲットー・チャイルド」などには、黒人の共感を得るキーワードがしたためられています。物語の起承転結の表現が実に上手です。

(「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」「ゲットー・チャイルド」の訳詞は下記に)

リンダは1972年にステファン・リー・エプスタインと結婚しますが、そのときの気持ちを描いたのが「ユー・メイク・ミー・フィール・ブラン・ニュー(あなたは、わたしをまったく新しい気分にさせてくれる)」で、スタイリスティックスの名唱で歌われ、大ヒットします。

ACT 6 売れっ子作詞家へ

ブレイク。

そうした作詞家としての才能が認められ、リンダ・クリードはトム・ベル以外からも作詞のオファーを得るようになります。そんな中、作曲家でプロデューサーであるマイケル・マッサーがリンダの才能にほれ込み、いくつか一緒に曲を書いています。

1976年、彼女は一家でカリフォルニアに移住。しかし、この頃彼女の体に癌が発症。最初の除去手術を受けますが、ちょうどその頃、ボクサー、モハメド・アリの自伝映画『モハメド・アリ~ザ・グレイテスト』のテーマ曲をマイケル・マッサーが依頼され、リンダはマイケルとともに「何よりも素晴らしい愛」をテーマに書き始めます。

自分が癌になり、周囲の家族友人の愛によって、見守られている、自分は愛されているということをしたためたのが、「ザ・グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」でした。これは、マイケル・マッサー自身の人生の葛藤とともに、二人の悩みが同時に1曲の中に結実しました。このテーマは、ジョージ・ベンソンによって歌われ、ヒットします。

作曲家、プロデューサー、マイケル・マッサーにとっては、1973年のダイアナ・ロスのヒット「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」で業界内での知名度を上げていましたが、このジョージ・ベンソンの「ザ・グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」で、さらに知名度をあげることになりました。これは、マイケル・マッサー/リンダ・クリード作品の中でも白眉の出来で、最高傑作のひとつです。しかし、この曲の魅力を世界的に知らしめたのは、ジョージ・ベンソンではなく、当時はまだ無名だった一人の新人女性シンガーでした。それが、ホイットニー・ヒューストンです。ホイットニーのヴァージョンは、オリジナル以上のヒットにしており、多くの方はホイットニーのものでご存知でしょう。

ホイットニーのヴァージョンは1986年4月からチャート入りし、ヒットし始めますが、ヒットしてまもなくの1986年4月10日、リンダは乳がんで、36歳という若さで亡くなってしまいます。ちょうど、この「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」が全米ナンバーワンに輝いたのは5月19日から6月6日までのことでした。リンダはこの曲がナンバーワンになるところは見ることができませんでした。

リンダは26歳のときに、癌が発症。以来、ずっと癌と闘い続け、結局10年間、サヴァイヴ(生き延びた)ということになります。リンダは、病気のために仕事に穴をあけることを嫌い、最後まで仕事に没頭していたそうです。

なお、彼女はたくさんのソウル・ヒットを放っていますが、彼女自身は白人です。

リンダ・クリードは、1992年に、ソングライター殿堂入りを果たしています。

また、彼女が乳がんで亡くなったことで、「リンダ・クリード乳がん基金」という基金が設立され、乳がん撲滅の運動に一役買っています。

■ リンダ・クリード関連記事

November 09, 2006
Top 15 Linda Creed Songs Selected By The Soul Searcher
http://blog.soulsearchin.com/archives/001382.html

November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
http://blog.soulsearchin.com/archives/001383.html

2011年11月13日(日)
「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリー(訳詞付き)~名曲物語
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20111113.html

■リンダ・クリードの作品、2例

Children Of The Night
(Thom Bell / Linda Creed)

チルドレン・オブ・ザ・ナイト

The Stylistics - 1972 アルバム『ラウンド2』
Also recorded by: The Jones Girls

夜遅く、世界が夢に包まれ心配事など何もないとき、
僕は歩道の影を歩く
深夜、僕のソウルが空っぽになり、寂しくなる

そんな時、僕は夜の闇へ向かう
たった一人で、僕と同じような寂しい人間に
出会うまでストリートを彷徨う
誰か、仲間がいないかと。

夜の申し子・・・

深夜、不安な気持ちが僕を襲う
どうにもならない
深夜、僕と似た人間にいて欲しい
この気持ちを理解して欲しい

再び僕は夜の闇を探しにでかける
たった一人で、同類に出会うまで、
あらゆるストリートを彷徨う
同じ仲間を探して

夜の申し子・・・

ナナナナ~

【訳詞=ザ・ソウル・サーチャー】

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Ghetto Child
(Thom Bell / Linda Creed)

Artist: Spinners
アルバム『ニュー・アンド・インプルーヴド』

17の時、家出した
それまでの全てから逃げ出した
僕は人生に疲れきっていた
憎しみと狭い心に溢れる都会に住むことにも
飽き飽きしていた

みんなが僕のことをあざ笑っていた

子供たちが僕を呼ぶ時、僕はどこかに逃げ隠れた
この世に生まれてきたことさえ恥じたものだ
僕は自分がやっていない罪で罰せられた
ついてない男だった

ゲットーに生まれると
人生は易しくない
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない

僕のパパは考えられる限りそんなゲットー・ライフを
うまく切り抜けたってことを誰もわかっていない

子供は過ちから厳しい現実を知っていく
夢のようなおとぎ話は、金持ちだけに訪れる物語
今や、子供時代の夢はいまだに実現すると
思う振りをするだけ

あちこちの街を旅しながら僕は考える
一つの街に留まるのは、自分のスタイルじゃない
なぜゲットーの子供は、辱められ、いじめられ、
あざけり笑われなければならないのか
僕たちは、みな同じ人間なのに

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (僕が証人さ)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (オー、イエー)

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (人生は荒れていく)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (どんどん泥沼にはまっていく)

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (何かを変えなければ)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (何かを変えなければ)

【訳詞=ザ・ソウル・サーチャー】

■ 同曲収録『ラウンド2』

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■ 「ゲットー・チャイルド」収録

フィラデルフィアより愛をこめて
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Children Of The Night
(Thom Bell / Linda Creed)
By The Stylistics
1972

Late at night
When all the world is safe within their dreams
I walk the shadows
Late at night
An empty feeling creeps within my soul
I feel so lonely

So I go into the darkness of the night
All alone I walk the streets until I find
Someone who is just like me
Looking for some company

Children of the night

Late at night
A restless feeling takes control of me
And I can’t fight it
Late at night
I feel the need for someone who like me
Needs understanding

So once again I’ll search the darkness of the night
All alone I’ll walk each street until I find
Someone who is just like me
Looking for some company, no, yeah, hea

Children of the night

So once again I’ll search the darkness of the night
All alone I’ll walk each street until I find
Someone who is just like me
Looking for some company, no, yeah, hea

Children of the night
Children of the night
Children of the night

Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na

Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na

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Ghetto Child
(Thom Bell / Linda Creed )
By The Spinners
1973

When I was 17
I ran away from home
And from everything
I had ever known
I was sick and tired
Living in a town
Filled with narrow minds
And hate

They used to laugh at me
The children called me names
I would ran and hide
Feelin' so ashamed
Just for being born
I was just a boy
Punished for a crime
That was not mine

Life ain't so easy
When you're a ghetto child (Oh, baby)
Life ain't so easy
When you're a ghetto child

No one tried to understand
Papa did the best a man could do

A child reality
Is paid for by his faults
Fancy fairy tales
Are born and sold by those
Who can well afford
Time to make believe
Childhood dreams can still come true
Uh, huh, huh, huh

So I've been wandering
Traveling all around
Guess it ain't my style
To live in just one town
Still I'll never know
Why a child is blamed
Ridiculed and shamed
We're all the same

Life ain't so easy
When you're a ghetto child (I'm a witness, baby)
Life ain't so easy
When you're a ghetto child (Yeah...)

Ooh...ooh...yeah...

Life ain't so easy
When you're a ghetto child (Oh, baby)
Life ain't so easy
When you're a ghetto child

Life ain't so easy (Yeah...hey...hey...)
When you're a ghetto child (Life can be rough)
Life ain't so easy (The going gets tough)
When you're a ghetto child (Yeah...but remember)

Life ain't so easy (Things gotta change)
When you're a ghetto child (Things gotta change, gotta change, yeah, yeah)
Life ain't so easy
When you're a ghetto child (Whoa...oh...oh...whoa...oh...oh...I'm a ghetto boy)

Life ain't so easy
When you're a ghetto child

ENT>MUSIC>SONGS>Child Of The Night
ENT>MUSIC>SONGS>Ghetto Child
FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special