被災者受け容れの記事に共感してご連絡くださった方、
拡販して下さっている方、ありがとうございます。

我が家以外でも受け容れてくださる方も出てまいりましたが、

肝心の被災者の方に情報が届いていないようなので、
ぜひ現地に赴く方などに情報提供をお願いいたします。

さて、今日は

いつもお世話になっている松前兼一さんから、

星言葉、などで有名な、

晴佐久昌英神父様がミサでなさったお話を送ってくださったので、

シェアさせていただきます。

クリスチャンであろうとなかろうと、
自分にとって必要なメッセージを受け容れたい。

そう思っていただけたら幸いです。

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≪地は震えても、天は揺るがない≫

今こそ「不幸でも幸い」であるキリスト者は、
まず気を取り直し、不滅の希望を語り、
具体的に愛し合い、身を起こして頭を上げ、
目を覚まして祈るべきではないでしょうか。

それこそが試練の時代におけるキリスト者の存在意義であり、尊い使命です。

「身を起こして頭を上げ」、
「目を覚まして祈りなさい」はイエスの言葉です。

「大きな地震があり、海がどよめき荒れ狂うので、
諸国の民はなすすべを知らず不安に陥る。

人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、
恐ろしさのあまり気を失うだろう。

このようなことが起こり始めたら、
身を起こして頭を上げなさい。

あなた方の解放の時が近いからだ。
神の国が近づいていると悟りなさい。
いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21章より抜粋)

「解放の時」とは、天の愛を知らず不信や恐れ、
欲望や争いに捕われている罪の状態からの解放の時のことです。

希望をなくしてはいけません。

恐ろしい災害があっても、この世界が悪い世界に変わってしまったわけではありません。

地震は天罰でも神罰でもありません。

神はどこまでも善であり、愛であり、

あらゆる希望の根拠です。問題は天にあるのでなく、

天を知らずにおびえる我々の心にあるのです。

マスコミは初めのころ「東日本大地震」とか
「東北関東大地震」と表記していましたが、

いつの間にか「大地震」が「大震災」に変わりました。

たぶん報道の焦点が地震そのものから災害の方に移ったからでしょう。

些細な変化のようでいて、実はここには大きな違いがあります。

地震は神のわざですが、災害は人のわざだからです。

大災害が起こると、
人はこうつぶやきます。

「罪もない人たちがこんな災害に巻き込まれて命を落とすなんて、
神も仏もあるものか。神が愛ならなぜこんなことをなさるのか。

仏の慈悲でも救うことができないのか」。

しかし、これは誤った見識です。

確かに地球を造ったのが神である以上、
地震も津波も神のわざであると言えなくはありませんが、
それは人類誕生のはるか昔から延々と続いていれ尊い創造のわざの一部であり、
それ自体には何の責任もありません。

いつだって地は震え、海は荒れ狂ってきました。

事実、直近のわずか百数十年の間に、
東北地方はすでに二度の壊滅的な大津波を体験しています。
その海辺になおも家を建て、「万全の」防災計画を練り、

堤防を造ったのは神ではありません。
人間です。

使いたいだけ電気を使うために
「絶対安全」な原発を建てたのも神ではありません。人間です。
「観測史上初」で「想定外」の波が来たと言うのも人間なら、
「神よ何故」と問うのも人間、「天罰だ」と言い出すのもすべて人間なのです。

足りないのは神の愛ではなく人間の愛であり、
むしろ問うべきは我々の傲慢と我欲、
神への無知と弱者への無関心ではないでしょうか。

神は人間には決して極めつくせない摂理と、
限りない愛の親心によって、この揺れる大地の上にわたしたちを置きました。
それは神の子たちの成長のために他なりません。

神はわたしたちがそこに起こるすべての現実に尊い意味を見出だしながら、
試練の中で知恵を出し合い、助け合い、愛し合うことに目覚めることを望んでおられます。

怖いのは地が震えることではありません。
地と共に私たちの心が震えて神を見失うことです。
今こそ神の愛に立ち帰るとき。

地は震えても、天は決して揺るぎません。

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以上です。

大切なものは揺るがない、
心の中の揺れが治まるように、
自分にできることを強い意志を持ってしましょう。

ということかなと思います。