公明党の支持母体、創価学会池田大作名誉会長が11月、95歳で死去した。政治と深く関わり、政教分離などを巡って批判も受けた。日蓮正宗(しょうしゅう)の信徒団体だった創価学会が、なぜ政治進出を果たしたのか。宗教的な背景は何か。佛教大の大谷栄一教授(宗教社会学)に聞いた。

 ――創価学会が政治進出を始めた宗教的な根拠は何でしょうか。

 日蓮の立正安国論(りっしょうあんこくろん)と三大秘法抄(ひほうしょう)が挙げられる。公明党の結党宣言にも、立正安国論や三大秘法抄に基づく王仏冥合(おうぶつみょうごう)が使われている。

 鎌倉時代比叡山で修行していた日蓮は、膨大な経典の中から法華経こそが最高の教え、正法という思想に至った。南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という題目(だいもく)に多くの功徳が込められていて、題目を唱えることで衆生が救われると説いた。

 日蓮は正統性意識が高く、宗教的排他性が強い。念仏や禅など法華経以外によって立つ宗派を激しく批判した。そのため、国家権力や念仏者から迫害を受けながら布教活動を進めた。

 ――日蓮は1260年、鎌倉幕府の最高実力者で前の執権(しっけん)の北条時頼(ときより)に立正安国論を出します。

 法華経を中心とする正法に国主が帰依することで、仏国土が実現すると訴えた。民衆だけでなく、国家権力者に布教することによって、法華経に基づく仏国土を実現させるという考え方だ。正法に導くため、権力者をいさめ諭すことを諫暁(かんぎょう)と言う。日蓮没後も立正安国論に依拠して、天皇や権力者への諫暁が行われた。

 しかし、近世以降、日蓮門下への弾圧があり、日蓮門下はしだいに世俗権力に従属するようになり、幕末には立正安国論不要論も唱えられた。

 立正安国論の価値がふたたび高まるのは明治時代に入ってからだ。日蓮主義者の田中智学(ちがく)や本多日生(にっしょう)が重視した。

国家主義とシンクロしていった日蓮主義

 ――なぜ重視したのですか。

 明治以降、仏教教団はいかに国家と関わるか、政教関係に苦労した。多くは国家に従属する形で活動を展開した。なかでも日蓮門下の日蓮主義者たちは立正安国論に基づき、より積極的に宗教と国家が結びつくべきだと唱えた。

 もう一つ、明治時代に重用されたのが三大秘法抄だ。三大秘法といって、日蓮の教えでは本門の本尊、題目、戒壇が重要になる。戒壇は、もともとは受戒の儀式をする場所で、日蓮門下では題目を唱え、受持(じゅじ)する場所のこと。多くの人々に法華経の信仰が広まったことを示す象徴的な場所であり、その建物を建立することが求められた。

 田中は法華経に基づく仏国土をつくるため、国の施設としての国立戒壇を建て、日蓮仏教の国教化、つまり政教一致をめざした。

 田中らによって、法国冥合、王仏冥合が積極的に唱えられた。王仏冥合の王は天皇、国家権力のこと。天皇をトップに、すべての国民が法華経を信仰することで日本を統一する。次は、法華経と日蓮の教えに基づく世界の統一を進める。日蓮の思想を当時の世界に適用するように解釈し、国家主義、帝国主義とシンクロしていった。石原莞爾(かんじ)ら軍人にも日蓮主義は広まった。

 ――そうしたなか、1930年に創価教育学会(戦後の46年に創価学会に改称)が設立されます。牧口常三郎・初代会長と戸田城聖(じょうせい)・2代会長は28年に日蓮正宗に入信していました。

 日蓮には、六老僧と呼ばれる6人の高弟がいた。そのうちの一人、日興の流れをくむのが日蓮正宗だ。「弘安二年の御本尊」と呼ばれる曼荼羅(まんだら)を本尊とし、富士山の山麓(さんろく)に戒壇を建てるという教学を持っている。日蓮門下では規模が小さい。

 45年の敗戦後、宗教政党が相次いだ。48年、日蓮主義を掲げた日蓮党ができた。同じく48年、京都の伝統仏教の主要11宗派を中心に第三文明党が結党された。いずれも大々的な活動をしたわけではないが、戦後の宗教界には政党を作る動きがあった。その中で成功したのが創価学会といえる。

 憲法にうたわれる政教分離は、国家が特定の宗教に特権を与えることを禁止するもので、宗教者の政治活動は政教分離に抵触しない。

 ――戸田・2代会長が54年、政治進出を表明します。

 立正安国論や三大秘法抄、さらには一期弘法抄(いちごぐほうしょう)に基づいて国立戒壇を建て、王仏冥合を実現すると主張した。政教一致を実質的にめざした。

 日蓮は、来世での救いを説く浄土教とは違い、現世での救いを説いた。現世利益を中心とする自己の救済と、政治進出による社会変革、他者の救済という両輪が創価学会の特徴の一つだ。

 ただ、国立戒壇という用語が国教化や政教一致をイメージさせるため、3代会長の池田氏が言い方を変えていく。

 ――どう変わったのですか。