ドラマ「海のはじまり」感想(まだ途中です) | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 

 プロデュース:村瀬健。

 脚本:生方美久。

 

 第1話。

 演出:風間太樹。

 海。

 いるよ。

 いるから、行きたい方へ行きな。

 南雲水季(古川琴音)が娘の海(泉谷星奈:「いちばん好きな花」で、夜々ちゃんのこどもの頃を演じた女の子だ)に向かって言う。娘へのはなむけの言葉に聞こえた。彼女は自分の死期を、悟っていたのだろうか。

 

 主人公・月岡夏を演ずる目黒蓮がとてもいい。夏の心が立体的に見える(殊に、水季に相対しているときの夏と、弥生に会っているときの夏とでは、少し人間の見え方が違っている)。ここは生方氏の脚本の冴えとも言えるが、目黒蓮の好演もそれにもまして、いい。南雲水季を演ずる古川琴音とのあいだに醸し出される空気感がとてもいいのだ。まるでため息を発するかのように、セリフが生まれ、観客の心に沁みてゆく。その抑えた感情のにじみ方が哀しい。

 そして恋人、水季のすがたが、その佇まいが哀しいほどにうつくしい。人工妊娠中絶の同意書をもってきた場面での水季の、顔面蒼白にも見える、その表情には堪らえがたい感情が見えかくれしていた。もうこの場面の時点で水季はふかく、悲しい決意をしていたのか。

 

 まだ第1話を見ただけで、全体像が見えているわけでもないから、何を言うわけにもゆかないが、水季がどんな思いで海を生んだか、その想いのかたちがものがたりの奥の奥に、薄ぼんやりと大きく見えている。

 

 一歩、距離を置いてこのドラマを観ていると、ドラマの底に、一本の緊張の糸がぴいんと張っているのを感ずる。これは脚本のもつ高いテンションを、演出が生かしていないとこうはならない。

 

 第2話。

 演出:風間太樹。

 夏の恋人:百瀬弥生(有村架純)も、心に痛みを抱えて生きていることを知った。トイレに(逃げて)、人知れず涙を流すシーン。そこには最初何らかの感情があるようには見えなかったけれど、繰り返し見るほどに、わかってきた。悲しみの表し方は人それぞれ。このひとはこういう泣き方をする人なんだと、そのあとで描かれたエコー写真やセリフ、水子供養の位牌に合掌するロッカーのシーンで身に沁みるほどに感じられた。中絶と言うより、死産扱いの中絶だったのだ。

 水季の働いていた図書館が「小田原中央図書館」であることもわかった。水季と海は小田原で暮らしていたんだろうか。

 夏の母が、継母で、弟とともに血の繋がっていないことは、第1話でもうすうす察せられたけれど、第2話ではそれがはっきりわかった。2人は父の連れ子なのだ(また僕の病気が出た。記憶が勝手に改竄されてしまう病気)。そして夏は母と、弟は父と暮らしていたことが明らかになった。離婚していたんだろうか。そういうところも、夏の人格形成に影響を与えている気がする。やはり目黒蓮、いい演技をしている。

 

 第3話。

 演出:高野 舞。

 水季が生きていたころ、海は、母と離れるのをいやがった。片親だからだろう。ひとりぼっちになってしまうのが怖いのだ。

 しゃべりつかれて眠ってしまうのを、「充電切れ」と表現する、水季の母・朱音(大竹しのぶ)。そして帰ろうとする夏を引きとめようとした。目覚めたとき海が寂しがるからいてほしいのだ。母を永遠に喪ってしまった海にとって夏の存在は、この世でたった一つの〈生きるよすが〉になってしまっている気がした。

 うすうす察してはいたけれど、以前、水季が言っていた、「好きなひとができた」って話。新しい彼ができたのではなく、大好きな、愛すべき娘ができたってことなのだろうと思った。

 小田原中央図書館。

 海が本棚の間を歩いて、広い処に出たとき、窓際で何かしている女性の影をみた。中央図書館のエプロンをしていたそのひとは、どうみても水季に見えた。

 ママだ! 生きていてくれたんだ! ちょっと隠れていただけなんだ! そう思って駆けよってみると、違っていた。図書館の女のひと、三島芽衣子さん(山田真歩)だった。この場面。〈母を見つけた!〉という喜びが大きかったぶん、落胆も大きかったのだろう、海は泣きたい気持ちだったのに、泣くこともできなかった。

 今回のセリフにはところどころにトゲがある。津野(池松壮亮)のセリフ。朱音のセリフにそれを感じた。図書館では声を立てられないのをいいことに、あたかも、夏を徹底的に傷つけ、何も知らなかったことを責めさいなんでいるようにみえた。観客には不快でしかないこの場面。よほど水季の死がひどいものだったことが、察せられる。

 「水季がいないここ(図書館)来たの、初めてでしょ」と夏は言ったけれど、海は、ここへ来れば母にまた逢えるんじゃないか。そう思っていたんじゃないだろうか。口にはしなかったけれど、そう思っているんじゃないかと感じた。

 図書館から帰ってきた弥生に、「こども産んだことないでしょ」と、不躾なことを訊く朱音。失礼だと思わないんだろうか。こういう言いぶり、水季はいったい、どんな死に方をしたんだろう。そればかりが気になる。

 この第3話。海に水季を喪った悲しみを、夏が吐きださせる場面がある。こどもの心は、大人のようにキャパシティが大きくない。母を喪った悲しみを誰にも言えず、我慢していると、すぐにキャパオーバーになって、心が毀れてしまう。心が毀れてしまう、とは、何か。それは、たとえば海ちゃんがものごとを心から悲しめなくなったり、人を愛せない大人になったりする、そういうことだろう。そういう精神面の痛みを解決する方法を知っていないと、この子は感情のないこどもになってしまう。だから夏は、海を悲しませようとしたのだ。悲しいのだ。悲しくないわけがない。悲しみが大きすぎて、心から取り出すこともできないくらい大きく、重いのだ。だからちゃんと悲しんで、涙を流さないと、海はこの先生きてはゆけない。この場面の泉谷星奈さんの涙。「海のはじまり」は、ドラマに於ける海ちゃんの比重が大きいので、星奈さんのここでの涙は、他の誰の演技よりも胸に沁みた。

 あと、月岡家の家族構成の複雑さもやっと第3話ではっきりした。夏は母の連れ子で、父とも弟とも血がつながっていないこと。母・ゆき子(西田尚美)と新しい父が結婚して、現在の月岡家になったこと。つまり夏には二人の父と、一人の母がいて、大和には、一人の父と、二人の母(前の母とは死別)がいるのだということ。それにしては、仲のいい家族であるのは、月岡家の夫婦関係のひとつが離婚ではなく、死別で結ばれた関係だからかも知れない、などということをふと思った(と、第5話を観て、やっとわかった。まだ僕は間違っていたようだ)。

 あれから海は〈ママのことを考える時間〉をつくった。ママは消えてしまったのではなく、胸の、〈ここ〉に、いること。そのことがわかっていれば、淋しくない。その代わり、悲しむ時間だから、心は沈むけれど、そういう時間も海には大切な時間。

 弥生さんの心の奥を、まだ夏は知らない。彼女が妊娠した経験を、胸に強い痛みとして抱えていること。海ちゃんのことを育てたいと、思っていること。いまの弥生さんは胸に母性愛を秘めた女性なのだ。

 海。

 海は、渚で言った。

 夏くん。パパにならなくてもいいけど、

 いなくならないで。

 海にとって、誰かがいなくなってしまうことほど、つらく、おそろしいことはないのだ。

 ラスト。

 海のアップの写真を撮ろうとして、夏が少し離れて撮ろうとすると、不安なのか海はついてきてしまう。いなくなったりしないって知ってはいるのに、離れるのが怖いのだ。

 

 第4話。

 演出:ジョン・ウンヒ。

 今回、演出は、水季の妊娠・妊娠継続と弥生の妊娠・中絶とを、並行的に描いている。

 夏に、海とのことを、結論を急がせようとする弥生。海のお母さんになりたいからと弥生は言った。今回初めて夏に対して、自分にも赤ちゃんを身ごもった経験があることを告白した。元カレとの間にできた子をおろした経験があること。そしてその子が生まれていたら海ちゃんぐらいの歳になっていること。だから弥生さんには、海ちゃんとその子がダブって見えてしまうのだ。

 好きなひとに似るのなら、産みたいと言った水季。中絶を思いとどまったのは、彼女の父親・翔平(利重剛)が促してくれた所為かも知れない。水季を出産するときの朱音の母子手帳を見せたのは父だ。弥生さんにはそんな親はいなかった。世の中にはいろいろな親がいる。

 「私、無理だから」と弥生の母は言った。

 なんて無慈悲な言いぶりだろう。その言葉が針のように弥生の胸に刺さって抜けないのだ。

 第1話にあった、水季の別れの電話。電話のこっち(水季側)では、こんなに心が揺れたんだとわかって「内緒~っ。秘密~っ」の軽薄な言葉が、言葉と裏腹に重みを持って聴こえた。

 一方の弥生。手術を終え、帰って、お風呂を洗っているとき、ちょっとバランスを崩して、お腹に衝撃を与えてしまった。その時思った。そうだった。もういないんだった。空っぽの子宮に手をあて、女のかなしみを味わった。すべてを洗い流そうと、シャワーのお湯を、子宮にかけた。涙まみれの顔にもかけて泣きくずれるのだった。弥生の押しころしたかなしみ。弥生という人はこういう、忍ぶひとなのだ。

 だから弥生は、自分の罪滅ぼしをしたい理由もあるけれど、心の底から〈お母さん〉になりたいひとなのかも知れない。身ごもっていたときに芽生えた母性愛は、未だ弥生さんの心の奥に息づいているのだろう。

 あの、8月に一週間夏休みがとれるんですけれど。と、朱音に切り出した夏。海ちゃんとの時間をつくりたいですと言ったら、じゃあここに住んでみたら? という朱音。知らないなら、知ろうとするしかないのよ。お風呂に一人で入れるか、とか、歯磨きとか。一緒に一週間暮らしてみたら見えてくるもの、あると思うわよと言われた。はい、と応えた夏だった。

 第4話の最後に、水季の入院中の描写がある。絵本「くまとやまねこ」を海に読んでやる水季。最後に死んでしまうのが、かわいそうと言う海。でも、生きていたとき、しあわせだったかも知れないよと、水季がいう。わかんないけれどね、しあわせって自分で決めることだから。ママはしあわせ。すっごくしあわせ。

 

 第5話。

 演出:風間太樹。

 冒頭に出てきた、髪を結ぶ飾りつきのゴム。伏線になっている。

 今回の放送で、水季の病気が子宮頸がんだということもわかった。病院にかかれば早期発見できたのに、暮らしが貧しく、病院代が出せなくて行けなかったのだろう。

 やはり、目黒蓮がいい。彼と海ちゃんを演ずる泉谷星奈さんの演技が、ドラマ全体の色彩を象徴しているように思われた。それと、有村架純の、弥生が親を語る場面。静かに淡々と語るので、ああ、このひとは幾度も家族のことでつらい目に遭ってきたひとなんだなということがわかった。淡々と語れるのは、大人になったせいでもあるし、深く傷ついた経験が数多くあるからでもあり、親と距離を取っているせいでもあろうか。声をたてずに静かに話すのは、まだそこがつらいからなのだろう。有村架純は脚本の色彩に染まるのが上手いのかも知れない。

 夏の母・ゆき子が家族の夕食のさなかに、夏にこどもがいること、それを今まで親に隠していたことを、夏を諭すように、諫めるように叱った。その場面が胸に沁みた。月岡家のひとびとが、心あるひとびとでよかった。

 海が生まれ、水季が亡くなるまで、津野が海の父親代わりというか、保護者のような存在だったことも、第5話で明らかになった。夏という父親が現れ、自分の役目は終わったと、頭では理解できても、海に情が移ってしまっている津野の父性愛は、そんな簡単に消えうせるものではない。

 ママが病気のとき、よりどころは津野くんだけだったのに?(ママがいなくなったから、夏くんがいるからもう離ればなれなの?)

 津野くんの家のソファに、海の飾りつきゴムがあった。この部屋に海が泊まったことがあったのだろうか。

 

 第6話。

 演出:高野 舞。

 臨月になっても、実家に帰らなかった水季。子育ての大変さをこの時点でわかっていたらとは思うが、わかっていたとしても、彼女は親を頼らなかっただろうし、実際そのように行動したのだ。破滅はあらかじめわかっていたことなのに、水季はそちらへ人生の舵取りを行った。

 ワンルームのアパート。聞けば、亡くなる2週間前までここで暮らしていたという。気を目いっぱい張って生きていたのだろう。これ以上住ませるわけには行かないと、朱音たちが実家に引き取ると、そのままガクッと力尽き、2週間ももたず、亡くなったという。

 生前の水季と海の場面。そして水季亡き今の、夏と海の場面が、奏でられる音楽につつまれると、ことさらに情感を高めるように、詩情があふれだしてくる。殊に、海の笑顔が音楽によって、美しい詩情を醸し出しているように感じられる。

 図書館貸し切り。海のために津野くんが許可をもらって、休館日の図書館を開けてくれた。おだわら中央図書館にはまだ、水季の気配が残っている。だからきっと海にもそれがわかるのだ。

 今週、池松壮亮の演技が著しく、いい。押し殺したセリフの奥に、深い悲しみが横たわっているのが感じられる。

 「月岡さんより、僕の方が哀しい自信があります」。

 津野くんは、泣いていなかったのに、泣いているようにみえた。

 自分の家にあった海の髪留めでもって、海の髪を縛ってやる津野くん。あれはたぶん海が津野くんの家でお風呂に入ったのだろう。一晩泊ったのかもしれない。そのときに失くしたものだと思われた。

 水季が海を産むか否かを決めたその日、産科には待合に一冊のノートがあり、こういう記述があった。

 妊娠9週で中絶しました。強い罪悪感に襲われています。彼がああしてくれたら、母がこう言ってくれたらと、罪悪感を他人の所為にしてしまい、そんな自分に、また落ち込みます。まるで自分が望んだように振舞っていただけで、実際は他人にすべてを委ねていました。人に与えられたものを、欲しかったものだと思い込むのが、私は得意過ぎました。後悔とは少し違う、でも同じ状況の人に、同じ気持ちになってほしくありません。他人に優しくなり過ぎず、物分かりのいい人間を演じず、ちょっとずるをしてでも、自分で決めてください。どちらを選択しても、それはあなたの幸せのためです。あなたの幸せを願います。

 弥生の声で語られたこの言葉。水季はどんな想いでこれを読んだのだろう。

 

 第7話。

 演出:ジョン・ウンヒ

 スーパーの安いコロッケしか知らなかった海。水季と夏がなぜ別れたのか、知らない海。でも、水季が夏をまだ愛していることを疑わなかった。たしかにそうだった。水季は夏がきらいになって別れたわけではないのだ、むしろその逆だったのだ。好きすぎて別れたのだ。

 一方、津野くんの部屋の本棚には、育児の本のほかに、子宮がんの本もあった。津野くんは本棚の本をまとめて処分するつもりらしい。何のつもりだろう。

 納骨の話を聴いて、骨壺を抱きしめて動かない海。母の声が聴きたいわけじゃないのだ。聴きたいわけじゃないけれど、母のからだから、骨から離れてしまうのがたまらないのだろう。海は母が末期がんのころの烈しい痛みを知っている。あの苦しみを知っているから、骨になってもまだ痛いんじゃないかと、骨になっても、まだママは生きているんじゃないかと、そう思うとたまらないのだろう。

 大和は父の配慮で死んだ母の骨を少しだけ分骨してもらい、ミニチュアの骨壺に入れ、持たせてもらっているらしい。物心つく頃に死なれたから印象も強烈で忘れられないのだろう。つまらないことに見えるかも知れないが、本人にとっては重要で、必要かどうかはそのひとにしかわからない。そういうことってあるのだ。

 いまの母・ゆき子が大和に会ったのは大和が7歳の時。まったく口を利いてもらえなかったという。現在では仲良しだが、時間をかけて、関係をつくりあげていったのだ。それを聴いていた弥生は海の心にある水季の思い出は、うつくしい物語のようで、うらやましいという。

 津野くんが図書館で直しかねていた「くまとやまねこ」の絵本の補修。思い入れの強い本なので、破損しただけで自分の心の傷を見る思いなのだろう。それを見かねて三島さんが声をかけてくれた。

 津野くんは初めて図書館の休憩室に水季が海を連れてきたときのことを思いだしている。「子育てがんばってね。でも無理しないでね」と無責任な励ましの言葉をかけたけれど、そんなとき水季は〈言われっぱなし〉のできる人間じゃない。「無理します。しないと娘も私も死んじゃうから」。八つ当たりをあやまる水季だが、こんな八つ当たりはどんどん云うべきなのだ。そうしないと誰も援けてくれない。子育て支援を申し出る津野くん。

 それからは津野くんの部屋が臨時の託児所になった。こどもが新しい環境に順応するのは早い。水季は津野くんの好意を利用して海をまかせている。最低だと自分で言うけれど、まだ自分のからだに病魔が忍び寄っていることに気づいていないらしい。ある夜、母子手帳に挟まっていた〈あの紙〉を見てしまう津野くん。彼は夏のことを何も知らないから、ひどいことばを言ったが、津野くんの立場からなら詳しい事情も知らないからああ言う外はなかったろう。でも水季からしたら、夏が好きだからこそ、彼に負担をかけさせたくなかったのだ。

 ただ、その日状況が変わった。宣告をうけたのだろう。朱音に自分の病気を打ち明けた水季は入院。いま初めて、自殺する人のきもちがわかったという水季。治療か、緩和ケアか。治療の道を選ばなかった水季。少しでも長い間、海といっしょにいたい。そのために緩和ケアの道を選んだのは、がんの痛みを侮っていたわけじゃない。いまは津野くんの外に頼れる人のいない水季は、助けを津野くんに頼んだ。図書館の休憩室から聴こえる喘ぎ声。海にはごまかすようなことを言っても、海にだってわかるのだ。ママのつらさは海にもつらい。でも朱音には水季は言うのだ、死ぬのが怖い。死にたくない。

 ある日の蝉のやかましい夏の日。津野くんの携帯のバイブレーターが鳴った。その時、津野くんは電話に出なくともわかったのだ。朱音が何の用で津野くんの携帯を鳴らしているのか。それだけで何が起こったのか、わかった。朱音の声は観客には聴こえない。聴こえないが、喋りおわる前に津野くんは全てを理解し、慟哭しているのがわかった。その胸を引き裂かれるような、かきむしるような演技。このドラマでの池松壮亮のいちばんいい演技がここにあった。

 水季と海の部屋で、荷造りしている朱音。そこに現れた津野くんだが、「触らないで」と言われた。母親にとっては、津野くんは部外者なのだ。

 南雲家から水季の骨壺が消えてしまった床の間に寝ころがって、海は畳をひっかいている。そのそばに膝をつき、水季の遺品のネックレスを、海に身につけさせてやる夏(星の中に遺灰が閉じ込めてあるらしい)。

 夏と弥生と3人でお墓参り。津野くんが先に来ていた。津野くんがどんな思いでここまできたのか。いまはそれがわかるから、海に津野くんのところに行かせた。墓に水をやるふたり。

 駅へ行く弥生と津野くん。春のある日、水季は海をつれて、夏に会いに行ったことがあると津野くんは言った。そして女の人と部屋から出てくる夏をみて慌てて帰った。もし1人で出てきたら、海を会わせるつもりでいた。けれどそれができなくなってしまった。誰の所為でもない。ただ巡り合わせが悪かっただけ。

 そういうの全部教えてください。

 何故ですか。

 母親になりたいからです。

 立派ですね。凄いですよね、そういう女の人のこどもへの覚悟っていうか。

 カチンときた。

 なんでこどもの話になると父親より母親が期待されるんですか。

 母性? 何です、それ? 無償の愛? 何ですかそれ? こどもを愛したくない母親だっているのに?きれいごと言わないでくださいよ。

 同じようなことを水季も言っていたことに思いいたった津野くん。

 似てますね、水季さんと。似てないことにも腹立ってたけれど。それも腹立ちますね。

 似てないと思いますけど。

 あなたは知らないじゃないですか。相談ごとあったら何でも言ってください。水季さんみたいに何でも自分で決めないでくださいね。

 はい。

 

 第8話。

 演出:風間太樹。

 前の父親。夏は顔を写真か何かで知っているだろうけれど、四半世紀も前に息子と生き別れた父親は成長した夏のことなんてまったく知らないだろうし、彼の身の上話など興味もないし聞きたいとも思わないだろう。けれど、海が、顔も知らなかった夏に会いたがったように、夏も父親に会いたくなったのかも知れない。

 野次馬的には、逢わない方がいい。逢ったらきっと後悔すると思った。母が険悪になって別れた父なのだ。ろくな男ではないだろう。

 いま、ちょっとドキッとした。生方氏の脚本は、基本的に〈ら抜き言葉〉なのだが、大竹しのぶだけ、ら抜き言葉じゃなかった。彼女が希望したんだろうか。気持ちよく、いい響きに聞こえた。僕も、〈ら抜き言葉〉は嫌いだ。

 溝江元春(田中哲司)。夏の父の名前だ。

 大体、海をつれて逢うなんて無謀だ。夏は口下手で言葉が遅い。うまく海のことを説明できないのは分かっていたはずだ。ややこしい話は嫌いだと元春は言いながら、夏が吶々と話す海のことを最後まで黙って聞いてやることもできず、話を途中で遮り、先回りして、早合点して、決めつけて、誰が悪いの、お前は騙されているのと言い放つ。何にもわかっちゃいないくせに、偉そうに。海にはこんな親、逢わせるべきじゃなかった。

 それでもだ、元春はそんな極悪人じゃない。極悪人だったら、喫茶店で思わず椅子を蹴とばした夏を、諫めるような真似はしないだろう。それにだ、あれから夏に会いたくて、夏の行きつけの写真屋に毎日やってくるところなんて、夏に特別な思い入れなしにできることじゃない。下手なひとなのだ。自分のきもちを伝えるのが。彼は悪いばっかりの父親じゃなかった。こういう処は生方作らしい多角的な描写ができている。彼は〈ただの悪人〉をつくらないのだ。

 父親は言った。誰にも聞かれたくない本音を、言いたくなったら俺に連絡しろよ。

 父親は無責任男だったけれど、ただの悪人じゃなかった。いい面もあった。

 夏は海の父親になることにした。

 

 

 第8話と第9話に挟まれて、特別編がある。「恋のおしまい」というタイトルがつけられている。

 時は2021年。オリムピック・イヤー。水季が育児と仕事にかまけて、自分の体調まで思いやれなかった頃だ。

 演出:山岸一行。

 図書館で司書をしていたころ。お弁当は塩むすびに卵焼きにブロッコリー、タコさんウィンナー、人参? たぶん、お弁当の中身は毎日これだろう。蜜柑のグミ。これは自分で食べるのだろうか。津野くんも同じものをコンビニで買っていた。たぶん彼は特にこれが好きというわけじゃない。水季が好むから買ったのかも知れない。津野くんが自分のこと好きなのを知っているし、きょうはデートに誘われた。

 好きにならないように、自制している。ということは、津野くんに惹かれるものを感ずるのだ。

 でも、デートしていても、話題に上るのは海のことばかり。

 津野くんのことを好きになりたくないのは、津野くんとの子が欲しくなってしまうのが怖いから。海のことがいちばんじゃなく、二の次三の次になってしまうのが怖いから。海のことがいつもいちばんでなくちゃつらい。津野くんは海の父親代わりになり、水季の夫にもなってくれるかも知れないけれど、それは自分の願望の犠牲になってしまうだけなのではないか。

 今回、展開が若干単調だった。

 

 

 第9話。

 演出:高野 舞。

 今回、まず、ものがたりは夏と弥生の出会いから語られる。

 ここでも、夏の人となりが十二分に描かれる。そして二人のなれそめが語られたあと、現在の二人。待ち合わせ場所に悲しそうな顔をした弥生が映される。

 海とのショッピングの時、「お母さまも」と言われて、表情をこわばらせた弥生。こういうリアクション。思えば第8話で水季からの手紙を受け取って以来、様子がおかしいようだ。

 夏はそれをずっと気にしている。

 海と食事に出かけるという夏からのお誘いにも、仕事あるからと嘘をついて行かなかった弥生。

 かつては一刻も早く親になりたがるようなことを言っていた彼女の、この急変。

 それだけ彼女の精神内宇宙では、幾層にも幾層にもなって、想いがぐるぐる渦巻いていたのだろう。

 結局弥生は、水季からの手紙を読んだ。

 それは、産科のノートにこれから産もうか中絶しようか、悩んでいるひとへかつて弥生が書いたメッセージのように、水季はそれがあのメッセージへの返信になるとも知らず、弥生に送ろうと思ったのだ。

 結局弥生は、夏と別れることに決めた。

 こういう作劇術。ほんとうに岡田惠和あたりのドラマとは正反対。岡田惠和だったら、弥生の内面には迫らず、三人が一緒に暮らすしあわせだけを描いて、仲良しこよしで終わるだろう。それは観る人をしあわせなきもちにしたいという、岡田脚本の神髄であり、それも尊重すべき作劇術かも知れないが、生方美久的作劇術においては、そういう幸福感よりも、描くべきものは外(ほか)にあるという考え方だ。

 愛しあっていてもひとは別れなければならないこともある。相手のしあわせを想えばこその訣れ。あるいは関係が続けばつづくほど、どちらかが犠牲になって苦しむ人生。誰かの精神的犠牲を前提にするしあわせは正しくない。そういう人間同士の齟齬・軋轢、あるいは抑圧によって生まれる苦悶。そういうものを描くことこそが、人間の精神の深層に切りこむ刃となるのではないか。少なくとも生方氏の脚本は人間の本心をさぐるだけの眼力はあると思う。