内田百閒と飛行機 | 悠志のブログ

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 昭和四年のこと、法政大学の学生中野某が言い出しっぺになって、航空研究会を旗揚げしようという動きが起った。どこの大学にもあるボート部なんぞ作るより、飛行機の俱楽部を作った方が自分達は学生飛行のパイオニアになれるわけであるし、彼の知り合いに二等免許を持っている学生がいたから、それを足がかりにどんどん仲間が増えて、学内は面白いことになってきた。

 この航空研究会の会長、当初、なり手がいなかった。大学の錚々たるお歴々に声をかけたが、みな断られた。無理もない。免許を持っている学生はいたけれど、何分、経験未熟な若者達である。事故でもあったら責任は会長に降りかかってくる。よって当然のこと、受けてくれる物好きはいなかった。百閒に声がかかったのはそんな時であった。教授仲間から散々おだてられ、その場の空気でつい承諾してしまった。いざとなったら責任は自分が取る。私が教授を辞めればいいことだからと言って、腹をくくった。

 飛行機。実は発案者の中野自身乗った事がなかったが、試しに乗って病みつきになってしまった。先生、飛行機はいいです。是非あの壮快感を体験すべきです。仕舞には酒席に招いて百閒を頻りに空へ誘った。言われてそうかと乗ってみると、飛行機は意外と躍動的。忽ち夢中になった。飛行練習のある土、日の前日辺りになると、百閒はそわそわと落ちつかない。軍部の高官達は航空兵育成の礎になると見ていた。いずれは陸軍や海軍航空隊の重要な任に就き、兵力増強の強い味方になってくれる。馬鹿を言ってはいけない。百閒にそんな考えはなかった。純粋にスポーツとして彼らに飛行訓練を楽しませたい。中野と共にローマ単独飛行を計画、法大生栗村盛孝を飛行士に、アジア・ヨーロッパ横断飛行を成功させたのは百閒にとって誇らしい事だった。