NHKドラマ「お別れホスピタル」感想 | 悠志のブログ

悠志のブログ

ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 

原作:沖田×華。

脚本:安達奈緒子。

演出:柴田岳志・笠浦友愛。

制作統括:小松昌代・松川博敬。

 

 病院の終末病棟の入院生活を描いた医療ドラマである。終末病棟とは、もう治る見込みのない患者が来る病棟であって、回復して笑顔で退院する患者はほぼいない。このドラマの舞台の〈みさき総合病院〉では〈療養病棟〉と呼ばれている。

 賑やかな病室があった。野中さん(白川和子)と山崎さん(丘みつ子)と太田さん(松金よね子)。三人の女性患者が仲良くケンカしながら和気藹々と暮らしていた。山崎さんに癌のはげしい疼痛が起きて、苦しんでいるのを隣で聴きながら、まるでそれを自分の痛みででもあるかのように感じていた野中さん。そのことが彼女の、セリフのない、思いつめたようなまなざしだけで感じられた。いがみ合っているようで、ほんとうは心の通い合うものを感じていたのだろう。白川和子は言わずと知れた名優で、こんな端役につかうなんて、もったいなすぎる気もする。このドラマ、けっして目立たないが、こういう〈隠れた名演〉が数多くあった。その一つとして、この演技のことをここに書いておく。

 この三人の女性。ただそこにいて生きているだけでお互いがお互いを無言の内に支え合っていたのだ。それゆえ、一人が亡くなると、それを追うように一日のうちに残りの二人が次々に死んで、病室は空っぽになってしまった。ドラマでは病棟内で幽霊になった三人が、窓際の陽だまりで大好きな〈マアムちゃん〉を仲良く食べながら、楽しそうに語らっている姿が描かれる。

 こんな患者がいた。水谷良太郎(田村泰二郎)。癌の転移はないが認知症が進んで、妻・久美(泉ピン子)の手には負えなくなって、入院してきた。だが肺炎を併発。人工呼吸器をつけないと生命維持もむつかしい。だが延命は出来ても、もう意識が回復することはない。呼吸器をつけるか外すか。むつかしい選択を妻にさせる残酷さ。そんなこと実際に選べるわけがないのだ。久美さんは呼吸器をつけてくださいと言った。この、安らかに眠っているだけの良人のすがたを、心に焼きつけたいのだ。呼吸器をつけずにこのまま看取ったなら、人間が変わってしまった良太郎の記憶だけが印象に残り、かつてのやさしいお父さんの記憶が台無しになってしまう、と。当事者としてのそういうきもち、わかるような気がする。ところで、この泉ピン子。患者であるところの良人・良太郎:田村泰二郎より顔色が悪く、言わば〈顔面蒼白〉で、介護やつれとでもいうのだろうか、まるで死相が表れているようにも感じられた。彼女も名優といわれるひとなので、役作りとしてこんな面相をしているのだろうが、ちょっと怖いような気がした。

 こんな患者がいた。本庄昇(古田新太)。スキルス胃癌で余命半年の告知を受けている。彼は死を思いつめていた。他の末期患者がそうであるように自分も最後、麻薬でもって自覚ないままに昏睡状態になり、死んでしまうのだ。そんな死に方は怖い。自分が何かわけのわからないまま、死んでゆくことの怖ろしさ。煙草が好きで、禁じられていても何かしら隠し持っていて、病院でもトイレで吸い、火災報知機を鳴らされたりしている。余命宣告されているけれど、死ぬと言われてもどこかで助かるみちがあるんじゃないかと思っている。それなのに、ある晩、病院の屋上から身投げして死んでしまった。

 自分の死を見つめるということ。死んだらどうなるのか。誰にもわからない問題である。この世の誰ひとりとして死亡経験者はいないのだから、わかるわけはないのだ(臨死体験者はいるが、そんなのは死んだうちに入らない。死ぬというのは、心肺停止し、脳が死に、身体の全細胞が死ぬこと。そうでないうちは死亡とは言えないし、その状態から蘇らねば死亡経験者とは言えない。ゾンビに死後の世界のことを尋ねるのが一番なのだが、この世にゾンビはいない。つまり無理な話なのだ)。それゆえに、人類の永遠のテーマでもある。

 主人公は辺見歩(岸井ゆきの)。看護師である。妹:佐都子(小野花梨)はうつ病で摂食障害。自傷を行ったり家庭内で暴れたりしている。この小野花梨。毀れかかった心をもった女の子を演じて印象的だった。自傷行為を繰り返しているが、止められたぐらいで改心したとは思えない。こういう子は何度でも自殺を試みるだろう。仮に止められても、引きとめてくれてありがとうなんて口が裂けても言わない。感謝なんか絶対にしない。何故止めたのだと逆に相手を責めるものだ。そして幾度でも自殺を試みる。幾度でもだ。そういうひとは大地震が来た日にも迷うことなく、構わず首をくくるだろう。

 このドラマでは、〈生きたいとねがうひと〉と〈死にたいとねがうひと〉とを、対比させて描いている。さらに加えて〈愛するものに、「生きてほしい」と願うひと〉を描き、余命いくばくもない命に、一秒でも長く生きてほしい、とねがうひと、そして、それが叶わぬのなら、どうか苦しまずに逝ってほしいとねがう、家族の姿が描かれる。そういう患者と家族を前にして、死とは何かを問い直すドラマになっている。この終末病棟を見ていてわかるのは、余命を宣告された人であれ、〈生けるしかばね〉のようになってしまっている患者はひとりもいないこと。誰もが病による苦しみに呻き、悶えているが、どのひとも死にたくない、生きたいとねがっている。生きること、生きてゆくことがつらくて、日々死にたいと念じている佐都子のようなひとはひとりもいない。もし仮に、佐都子が末期がんの宣告を受けたら、彼女はどんなことを思うのだろう。自分の死というものに向きあえるだろうか。

 このドラマ。居酒屋の場面が印象的なドラマである。歩と新任の医師:広野(松山ケンイチ)が主に来て、本庄さんの死についてのことなど、本音を語り合う場になっているが、ドラマ後半になって妹の佐都子も仲間に加わり、親のことや身の上のことを語り合ったりする。語り合ったところで結論なんか出ないのだが、病院と寝に帰る自室との往復だけではやりきれないストレスを、発散する場が必要なのだ。終末病棟で人の死を看取る仕事をしていると、つらくなってくるのは仕方の無いことではある(ただここの場面、もう少し内容のある会話をしてくれないと、いいドラマとは呼べない。ここの辺りの内容の無さが高い点をやれない、言わば「透明なゆりかご」との決定的な〈差〉だと思う)。

 歩の先輩看護師:赤根涼子(内田慈)。気性の激しいひとで、療養病棟の看護師の中心的存在。息子は受験生で第一志望に一発で合格。なのに、彼女は下咽頭癌を患い闘病生活に入ってしまう。この内田慈。主演の岸井ゆきのより印象は強烈で、このドラマの〈顔〉になっていた。

 こんな患者がいた。久田勝(小林勝也)・今日子(高橋惠子)夫妻。そろってこの病棟に入院している。今日子の病状は大したことはないが、夫の勝は末期がんで、妻がそばにいないと譫妄状態に陥り、夜中に怒りくるって暴れたりするのだ。なのに今日子が隣に着た途端、ほっとしたように安らかに眠れるようになった。下手な看護師の介護より妻がしてくれる介護の方が彼には安心なのだ。だがそのことが今日子には耐えられない。夫は妻が別人格だということすら、理解していない。自分が快適であれば妻は幸せなのだと思いこんでいる。自分は夫の家政婦でも世話係でもない。苦痛でしかないのだ。「愛してたんだか、憎んでたんだかわからない」と今日子は言った。ひとが、たとえ身内のためにでも自分の人生を犠牲にするというのは、大変なことなのだ。

 患者役の役者の名演が印象的なドラマである。松金よね子、白川和子、丘みつ子、田村泰二郎、古田新太、きたろう、根岸季衣、樫山文枝、小林勝也、高橋惠子、木野花、大後寿々花。どの役者もいいが、殊に小林勝也の、「おい、おい! 今日子!」と妻を呼ぶ演技が、その声が耳を離れない。名演技だったと思う。

 福山さん(樫山文枝)の息子さん:幸造を演じた平原テツ。ひきこもりの中年男を演じたのだが、仕草と言い、セリフと言い、鳥肌の立つような名演だったことをここに書いておく。このひと、「テレビ報道記者」でも警視庁記者クラブ・キャップ、御厨庸を演じていたが、演技の質で言えば、この「お別れホスピタル」での演技は強烈で忘れられない。

 こんな患者がいた。大戸屋次郎(きたろう)。ちょっと気に食わないことが有ったり、かまってほしかったりするとき、すぐにナースコールする。典型的な〈かまってちゃん〉。心のうちでは涼子のことが好きなのだろう。彼女がいることが、彼女に面倒見てもらえることが毎日の歓びになってしまっていて、会いたくなるたびにナースコールを押しつづけるのだ。

 こんな患者がいた。幸村ヨシ(根岸季衣)。在職時代〈塩ゲンコツ〉の異名をもっていた元中学教師で、介助してくれるケアワーカー、南啓介のことを〈ケンさん〉と呼び、溺愛している。啓介は当初、辟易のていであったが、〈ケンさん〉に会えなくなった途端に病状が悪化し、ぐったりしてしまったヨシを見かねて、彼は再びヨシの世話に戻るのだった。ところで、〈ケンさん〉とは誰だったのだろう。勝手に思い浮かぶのは、初恋のひとの名前。そうでないとあんなに強烈に、愛の言葉を囁いたり叫んだりはしないと思う。

 このような彼ら患者に共通するのは、〈病〉という魔物に向きあえるほど、彼らの精神は強靭にできていないということだ。だから次郎は涼子の存在に救いを見出し、ヨシは啓介の存在に光明を見ている。誰かに助けてほしくて、ナースコールを押しつづけたり、大声で叫んだりするのだ。死に瀕したかれらはこの期に及んでも誰も死にたくないし、看護師も、治る見込みがないと分かっていても、誰にも死んでほしくないと日々願っている。けれどその願いは決して叶うことがない。〈見送る〉なんて言えば聞こえはいいが、その実、目の前にあるのは生き死にを現実にした修羅場だ。誰もが苦しみもがいて断末魔の叫びをあげている。その先にあるのは、冷たい死でしかない。

 こんな患者がいた。佐古ひとみ(大後寿々花)。脳出血で意識、そのほかの運動機能を司る部分のほとんどは回復が見込めない植物状態。母:寛子(筒井真理子)は、口腔癌ステージ3を宣告された。自分がいなくなったら、ひとみはどうなる。ひとみを看つづけ、思いつめ、誕生日のクリスマスにそれを理由に外泊して、心中しようとした。けれど本庄さんの二の舞だけは御免にしたいと、その行為は歩に辛うじて阻止された。寛子はそれで救われたが、当面の問題は解決していない。ひとみよりも先に寛子は死んでゆくだろう。その後に遺されたひとみはひとりぼっちで死んでゆかねばならないのだ。自覚のないまま病院で手厚い看護を受けられはしても、身内に看取ってもらえない孤独な死であることに変わりはない。そのことを予期したセリフが寛子から語られるが、ふたりはそれでしあわせだろうか。このふたり、母は離婚しているから、もう身寄りもいない。もし死んだら、誰が弔ってくれるのだろう。誰も葬式を上げてくれないのなら、このふたりの遺骨はどうなるのだろう。一家のお墓に入るにも手続きが必要だし、お寺への納骨料が必要だろう。それを出してくれる人もないなら、ふたりはべつべつに無縁仏として、共同墓地に葬られるのだろうか。ぼくはお葬式に関する知識がまるでなくてわからない。

 こんな看護助手がいた。南啓介(長村航希)。小学5年生の頃からアルコールを飲む習慣がつき、アルコール依存症になり20歳で入院加療の結果完治した。アルコール依存症で入院中の安田虎太郎(木村祐一)の暴力に切れ、彼に暴言を浴びせたことで咎められ、すっかり病院でやってゆく自信が無くなり、退職すると言いだした。だが、仕事をしなくなった依存症患者がどうなるかは火を見るよりも明らか。安田に叱られ、諭され、褒められ、励まされ、初めて自分の立ち位置に気づいたようだった。アルコール依存症というのは、抜け出すのが非常にむつかしい病気なのだ。

 

 第3話のはじめに非常に印象的な、歩の独白があった。

 

  時々はっとする

  私の目の前にいる人たちは

  日々、風の中の蝋燭みたいな命と向き合っている

  頼りない命を前にして

  人は最後に何を望むんだろう

 

 こんな患者がいた。池尻菜津美(木野花)。大地主で駅前の大きなビルも、繫華街にも50年も前から大きなビルを建てている。このビル群。繁華街のビル群は甥に譲ったが、駅前のシャンタルビルだけは頑として譲らない。誰が渡すか! 脳梗塞で身体の自由が利かない今でも息巻いている。思えばこのビルは彼女の存在意義そのものなのだ。このビルが人手に渡ったら、自分もこの世から消えてしまう。死にたくない。その一念だったのだ。彼女、この療養病棟で亡くなってしまったが、エンゼルケアのさなか、歩は菜津美の口のなかに、土地の権利書の破片が入っていたことを認めた。意地でも土地は渡さない。そういうつもりで呑みこんだのだろう。貧乏人も大金持ちも、大地主も、死んだらみんなただのぶよぶよの肉の塊。焼いてしまったら白いしゃりしゃりの骨だ。つまらない人生じゃないか。

 ドラマ全編を通じて、もっとも印象的な患者役の役者は、女性ではこの、木野花だったと思う。あの、我のつよい、こうと決めたら意地でも動かない演技は、強烈な印象を残した。役者の演技で、最も大切なことは存在感であり、人物を如何に魅力的に演ずるかにある。そういう点において、木野花は最高の演技をしていた。

 

  ドラマの最後に下のような独白があった。

 

  死ぬって怖い

  未だよくわからない

  でも たとえ どんな死を迎えても

  私は私で あなたはあなただ

  死ぬって何だろう

 

 そう、問いかけてドラマは終わってゆく。〈死〉というものは、どんなに考えたって、人生経験を積んだってわからないものはわからないのだ。要は、この原作者も、製作スタッフもこの問題に真摯に向きあって、何もわからなかった。〈結局、何もわからなかった〉という結論を導きだしただけで終わってしまった。何一つ具体的な答は見いだせず、死のうとするひとにも、死んでゆくひとにも何も言ってやれずにドラマは終っていった。わかろうとして努力しても決して理解のできる問題ではないこと。このドラマ、その結論を導きだせたことが収穫なのだ。まったく意味がないが、死というものを見つめつづけることが必要なのですよ、ということが言いたかったのだろう。見つめつづけることの大切さを思った。

 評価:Aマイナス(☆☆☆☆☆)